おおのじょうの遺跡/陶棺出土 野添遺跡第7次発掘調査速報展資料
更新日:2019年6月5日
野添遺跡(のぞえいせき)第7次発掘調査で陶棺(とうかん)が見つかりました。陶棺が九州で見つかることは大変珍しく、また、実物を見る機会はなかなかありません。
野添遺跡の場所
遺跡は牛頸山から北側にのびる丘陵のうち、現在日の浦池(ひのうらいけ)となっている大きな谷から南西にのびる小さな谷にあります。北東に約350メートル離れたところには、牛頸窯跡群(うしくびかまあとぐん)最古の野添6号窯があります。調査地の近くでは多数の須恵器窯が調査されており、三兼池(みかねいけ)のある大きな谷筋には、内部から鉄刀(てっとう)や耳環(じかん:イヤリング)などが出土した梅頭遺跡(うめがしらいせき)1次調査1号窯跡や、耳環の出土した2次調査1号窯跡、カマド塚が確認された3次調査2号窯跡が分布しています。
上大利地区の主な遺跡分布図
- 1 池田・池ノ上遺跡:JR大野城駅より南ヶ丘方面へむかう道路建設の際、調査された遺跡です。官道(かんどう)と呼ばれる大宰府から博多を結ぶ古代の道路跡が確認されています。
- 2.4.5.8.9 本堂遺跡:上大利交差点の西側の丘陵に位置します。平成13年度に調査を実施した1次調査では8世紀終わりごろ(奈良時代後期)の竪穴住居跡から粘土が出土しており、須恵器工人の工房(こうぼう)と考えられます。現在上大利交差点横で継続している2次調査地では、幅4から5メートルの溝を巡らす建物群があり、調査の結果が期待されます。
- 3 梅頭遺跡:三兼池(みかねいけ)の周辺に広がる遺跡です。平成13年度に調査を実施した1次調査では6世紀終わりごろ(古墳時代後期)の窯跡の中から鉄刀(てっとう)・鉄鏃(てつぞく)・耳環(じかん)などが出土し、窯跡の操業(そうぎょう)終了後、墓に転用したと思われます。現在調査中の窯跡からも耳環が出土し、墓に転用された可能性があります。また斜面からは大量の須恵器・土師器・瓦が出土しており、この附近に工人の作業場があったと考えられます。
- 6 上園遺跡:上大利3丁目を中心に広がる遺跡です。5世紀終わりごろ(古墳時代後期)と11から12世紀(平安時代後期)の集落が確認され、須恵器を多量に出土することから、須恵器つくりの工人(こうじん)の村ではないかと考えられます。
- 7 出口遺跡:弥生時代から奈良時代の遺構が確認されたほか、旧石器時代の石器も出土しており、周辺で活動があったことを伺わせます。
- 10 小水城周辺遺跡:小水城跡のすぐ北側にあり、県道31号線の拡幅工事の際調査がされました。溝や掘立柱建物が確認され、11から12世紀(平安時代後期)の土器が出土しました。また完全な形の鏡も出土しています。
- 11 小水城:水城と一連となって大宰府を防衛していました。丘陵間の谷部に造られ規模が小さいことから小水城と呼ばれます。ここは地名をとって上大利小水城と呼ばれていて、春日市でも3ケ所で確認されています。
- 12.15.16 野添遺跡群:野添窯跡群よりさらに南側に分布しています。13年度実施した2次調査では7世紀後半(飛鳥時代)の竪穴式住居跡と8世紀終わりごろ(奈良時代後期)の窯跡が確認されました。窯跡の灰原(はいばら)からは分銅(ふんどう)形のおもりが出土し、こうしたものが出土するのは非常に珍しいものです。この南側の山では6世紀終わりごろ(古墳時代後期)の窯跡2基が確認されました。
- 14 大浦窯跡群:南ヶ丘の開発の際発見された窯跡です。7世紀前半から中ごろ(飛鳥時代)の窯跡で、須恵器だけでなく、瓦も同時に焼いていた窯跡として注目されます。
- 19 平田窯跡:紫台にあった窯跡群です。上大利地区内ではE・Fとされる2地点から2基の窯跡が確認されています。E地点は7世紀の初めごろ(飛鳥(あすか)時代)の窯跡が確認されています。F地点は6世紀終わりごろ(古墳時代後期)の窯跡が確認されています。
- 18.20.21 野添窯跡群:県道31号線よりやや南側に分布する窯跡群です。ここには牛頸窯跡群最古の窯跡である6世紀中ごろ(古墳時代後期)の野添6号窯跡がありました。
- 水城跡:大宰府防衛のため7世紀中ごろ(飛鳥時代)水城や大野城などとともに造られた土塁(どるい)で、現在は流失が進み、築造当初の規模は分かりませんが、今でも長さ80メートル、幅15メートル、高さ2メートルの規模を誇ります。
何が見つかったの?
今回の調査では2基の窯跡が確認されました。
1号窯は谷の北斜面に造られていましたが、窯の残りはよくありませんでした。焚口の向かって左側には前庭部(ぜんていぶ:作業スペース)がありました。窯の中や灰原(はいばら:燃やした後の炭や灰、失敗作を捨てたところ)から見つかった須恵器の形から、1号窯で須恵器が焼かれていたのは6世紀の終わりから7世紀の初頭ごろと考えられます。
2号窯跡はさらに谷の奥へと枝分かれした小さな谷の東斜面に造られていました。2号窯も残りはよくありませんでした。焚口の手前に前庭部があり、灰原が広い範囲で確認できました。2号窯の灰原や窯の中からは須恵器に混じって、陶棺と呼ばれる須恵器製の棺桶(かんおけ)が2個体分見つかりました。陶棺は、箱型の棺の底に円筒形の脚がつく棺身に、屋根型の蓋をのせた、家のような形をしています。このような形をした陶棺は蓋の形から四注家形陶棺(しちゅういえがたとうかん)と呼ばれています。2号窯の年代は7世紀前半と考えられます。
わかったこと、注目されること
今回最も注目されることは、陶棺が見つかったことです。陶棺は近畿地方や岡山県(吉備<きび>地方)で見つかることが多く、6世紀後半から7世紀中頃まで使用された棺桶の一種です。今回のように脚を持ち家形をした典型的な陶棺が、完全に近い形で見つかるのは九州では初めてとなります。
陶棺推定復元図
陶棺断面図
今回出土した陶棺は、蓋の形から四注家形陶棺(しちゅういえがたとうかん)に分類されますが、他の種類に似た特徴を持つ特殊な例にあげられます。また、棺の部分に蓋受けを取り付ける陶棺は近畿地方を中心に分布しており、もう一方の中心地である岡山県ではこのような陶棺はほとんど見つかっていないことから、野添遺跡で見つかった陶棺は近畿地方と関連があると考えられます。
近畿地方では四注家形陶棺は7世紀初め頃に出現したと考えられており、九州においてもほぼ同時期に制作されていたことが明らかとなりました。このことは近畿地方と牛頸窯跡群との交流を示す重要な資料で、非常に注目されます。
今後、牛頸窯跡群における技術導入あるいは他地域との交流の実態を明らかにするためにも、さらに検討を深めていかなければなりません。
陶棺を復元している様子
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