水城をめぐる13〈中世・近世の水城〉/水城をめぐる14〈水城の植物〉
更新日:2019年12月5日
水城をめぐる13〈中世・近世の水城〉
(広報「大野城」 平成26年8月15日号掲載)
その後の水城
巨大な土塁と濠、荘厳な門を備えた水城(664年築造)は、やがて姿を変えます。
発掘調査の結果、 12世紀には、かつて楼門(ろうもん)構造(二階建て)だった西門は失われ、13世紀には、幅60メートル、深さ4メートルの濠は完全に埋まったと考えられています。
こうした水城の姿は、古文書からも知ることができます。鎌倉時代の『八幡愚童訓』という書物には、1274年の元寇(文永の役)のときの様子が記され、高い土塁があること、土塁の前面は深田(深くぬかるんだ水田)であること、門は礎石だけになっていることを伝えています。
また1480年には、連歌師の宗祇が太宰府から博多へ向かう際に水城に立ち寄っています。『筑紫道記』によれば、「横たわれる山の如し」と表現したうえで、天智天皇の指示で築造されたことを記し、またこれを造った庶民の苦労にも思いを寄せています。
水城研究の始まり
江戸時代になると、水城を古代遺跡として、再発見する動きが活発となります。貝原益軒や青柳種信は、古代の文献や現地を調査し、造られた時代や目的、構造や大きさなどについて記録しています。
また地元では、薪たきぎを採る里山として使われながら、貴重な歴史遺産として認識され、長い間守り伝えられてきました。
水城をめぐる14〈水城の植物〉
(広報「大野城」 平成26年9月15日号掲載)
古代の防衛施設である水城跡は、現在では宅地の中に残る貴重な緑地帯としても親しまれています。
古代の植物
水城が造られた頃、周辺にどんな植物が生えていたのかは、水城跡の堆積物に含まれる花粉・種実分析、敷粗朶(土塁の重みによる地盤沈下や崩落を防ぐために、樹木の枝葉を敷き並べたもの)の枝葉の樹種同定から知ることができます。樹木では、ブナ科、クスノキ科、ツバキ科などの常緑広葉樹、ヤナギ科、ナラ類などの落葉広葉樹、マツ属などの針葉樹、草本では、イネ科、カヤツリグサ科、ヨシ属、スゲ属などが見つかっています。低地には、湿地や水田、草地が広がり、山地には、人の手が加わった二次林的な照葉樹林やマツ林が広がっていたことが分かります。また、土塁表面には、イネ科草本類が生え、一部にマツなどがあったことが想定されます。
中世から江戸時代の植物
中近世の植物については、外濠の堆積物に含まれる花粉・種実の分析と、古文書から知ることができます。花粉・種実分析では、イネ科、オカダモ属などが見つかることから、湿地的な環境で水田が広がり、外濠が農業用の溜め池・溝として利用されていたことが想定されます。古文書では、『八幡愚童訓』、『筑前国続風土記』などに、堀が田となっていると記され、『筑前名所図会』の水城の挿絵では、土塁の上にまばらにマツが生えている様子が描かれています。
明治以降、現在
大正、昭和戦前には、常緑広葉樹と落葉広葉樹、竹林が主体となり、薪採りなどで利用されていました。戦後、土塁の平坦部分に桜・梅・カキなどが植えられ、現在の姿となりました。
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