水城をめぐる3〈水城東門〉/水城をめぐる4〈西門〉
更新日:2019年12月25日
水城をめぐる3〈水城東門〉
(広報「大野城」 平成25年10月15日号掲載)
水城跡には、東端部と西端部の2カ所に門が存在したことが知られています。今回はこのうちの1つ、東門をみていきたいと思います。
水城東門の門礎
東門の位置
水城の東端の旧国道3号(県道112号)沿いには、門の礎石が残っており、ここに門があったことを伝えています。残念ながら、門の痕跡は旧国道3号の建設のときに、大きく破壊を受けたと考えられており、門の構造や大きさ、変遷などは良く分かっていません。
東門の門礎
門礎とは、門柱の基礎となり、扉の軸受穴(じくうけあな)を備える石で、東門からは2つ発見されています。このうちの1つは、現地で保存されており、今でも見ることができます。
この礎石の特徴は、柱座(ちゅうざ)(門柱を据える部分)と扉の軸受穴、方立穴(ほうだてあな)(扉を受けるための柱を据えた穴)があり、水城西門でもよく似たつくりの礎石が発見されています。
また、旧国道3号の水道管埋設工事のときに、建物の礎石が発見されていることから、東門付近に立派な建物があったと考えられます。
水城東門ルート
水城東門は大宰府と博多方面を結ぶ官道(かんどう)沿いに位置しており、今でも、当時の面影をしのぶことができます。
大伴旅人(おおとものたびと)や山上憶良(やまのうえのおくら)など歴史上に登場する歴代の大宰府官人(かんじん)たちもここを通り抜けたことでしょう。
水城をめぐる4〈西門〉
(広報「大野城」 平成25年11月15日号掲載)
JR水城駅から南西におよそ200メートル、下大利から太宰府市吉松に抜ける市道と土塁が交差する地点は、現在道路幅3メートルほどの切り通しになっています。周辺では以前から瓦や礎石が見つかっており、ここに門があった可能性が考えられていました。
そこで、西門の全容解明のため九州歴史資料館が発掘調査を行ったところ、3期にわたる門の変遷と古代の官道が明らかとなりました。
現在の西門周辺
水城西門の変遷
水城が造られて最初に建てられた門は、地面に穴を掘って柱を建てた掘立柱式のものでした。2本の柱に横木をわたして扉をつけた簡素なつくりだったと考えられています。
2期目の門は瓦ぶきの礎石建物です。横に並んだ4本の柱に前後それぞれ控えの柱がつく八脚門とよばれる建物で、見つかった瓦の形式から8世紀の前半頃に建て替えが行われたと考えられています。
3期の門は、2階建ての楼門風の建物が想定されています。土塁の頂上から瓦が見つかっており、屋根は土塁よりも高い位置にあったと考えられています。土塁自体も大規模な改修が行われており、門の2階を通って土塁上を渡れるよう土塁との間には積土がなされていました。
西門ルート
大宰府と博多をつなぐ2本の古代官道のうち、西門を抜けて現在の春日公園を通り、筑紫館(鴻臚館(こうろかん))があった福岡城周辺までを結ぶ道が西門ルートです。外交使節や官人たちが行き来する国のバイパス道路として整備されたもので、ほぼ一直線のルートが想定されています。
西門ルート上では多くの遺跡も見つかっています。西門とあわせ、古代の道路をたどってみませんか。
水城跡周辺の古代官道(山村信榮 1993「大宰府周辺の古代官道」『九州考古学』第68号より)
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