大野城をあるく(けいさしの井戸)
更新日:2019年10月21日
(広報「大野城」 平成24年2月15日号掲載)
前回紹介した水城口城門の礎石の横に立つと、山手に向かって伸びる細い道があります。その道を進むと、間もなく右手に木の少ない場所があり、そこに目指す井戸があります。
けいさしの井戸の調査
この井戸の地形は、鏡ヶ池によく似ており、すり鉢状にくぼんだ土地の真ん中に作られています。
正式な発掘調査は行われていませんが、2回報告がなされています。
1回目は大正15年、島田寅次郎さんによるものです。島田さんは、文献・伝承をもとに四王院(奈良時代創建)に関連するものとしています。
2回目は、鏡山 猛さん・小田富士雄さんによるもので、昭和34年に行われました。『大宰府都城の研究』や『九州考古学研究―歴史時代篇―』の中で、構造について詳細に報告されています。その調査によると、井戸は円形の石組みで、大きさは直径約52センチメートル・深さ約164センチメートル・底の直径約73センチメートル。
石組みは、ほとんど自然のままの石を積み上げた「野面積み(のづらづみ)」になっています。井戸の底近くには、丸太を井戸の「井」の字のように組み合わせています。
底は板敷きです。
県内の発掘調査の成果を見る限り、奈良時代に使われた井戸は、板などを方形に組んだものがほとんどです。石組みの井戸が現れるのは、
鎌倉から戦国時代になってからのため、「けいさしの井戸」の石組みは、後世の補修だと考えられます。
ところで、井戸は昭和34年の調査以前は常に水を1メートル程度たたえていたとの報告もあります。
しかし、現在は地上から約1メートルの深さまで落葉などで埋まっています。
けいさしの井戸の名称
「けいさしの井戸」には、ほかに「独鈷水(どっこすい)」や「広目天の井」という呼称があります。これらは江戸時代の古地図にも載っていますが、由来は異なるようです。独鈷は仏教具の一種、広目天は四天王と仏教にまつわる意味を持ちます。ところが、現在の通称である「けいさし」については、意味が明らではありません。方言、外来語、造語、あるいは伝えられるうちに変化した言葉か…
いつ、誰が、どうしてこの井戸を作り、どんな意味を込めて名付けたのでしょうか。大野城を歩きながら考えてみるのも面白いかもしれません。
けいさしの井戸実測図(「大宰府都都の研究」より)
注:大野城跡へのアクセス方法は関連リンクを参照してください。
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