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水城をめぐる15〈父子嶋の伝説〉/水城をめぐる16〈101年前の水城の調査〉

更新日:2019年12月5日

水城をめぐる15〈父子嶋の伝説〉

(広報「大野城」 平成26年10月15日号掲載)

今回は水城の築造にまつわる伝説について紹介します。

伝説のストーリー

昭和50年の父子嶋(中央の小高い丘)水城の築造に携わっていた大里(大利)に住む父と子がいました。この日も、父と子はモッコ(土を運搬するための道具)を担ぎ、朝から何度も水城土塁まで往復しています。日暮れも近くなり、父と子がモッコを担いで土塁の近くまでやってきた頃、土塁の上から「わぁー」という声が聞こえてきました。小躍りしながらとんで来た男が「土塁ができあがったぞう」と叫んでいます。父子はその声を聞いたとたん、力が抜けてその場に座りこんでしまい、担いでいた土をその場に投げ出してしまいました。投げ出した土は土饅頭のように盛り上がったので、この場所を「父子嶋」と呼ぶようになった、ということです。

父子嶋の場所

実はこの「父子嶋」と考えられる小高い丘が、JR水城駅西側にあります。一部を発掘調査した結果、自然の地形が残っていることが明らかになりました。調査では奈良時代の土器も出土しており、水城築造後、何らかの形で使われたものと思われます。
また、太宰府側では「ひともっこ山」と呼ばれる同じような伝説が伝わっています。
いずれにしても、水城築造に関わった人々の苦しみや完成したときの喜びと安堵を伝える非常にユニークな伝説といえるでしょう。


水城をめぐる16〈101年前の水城の調査〉

(広報「大野城」 平成26年11月15日号掲載)

現在の水城跡断面の様子

長い間、史跡として存在を知られてきた水城跡ですが、本格的な学術調査は、今から101年前に行われました。
1913年(大正2年)7月、東京帝国大学教授であった黒板勝美氏は宗像市沖ノ島を調査するため福岡を訪れましたが、悪天候のために調査を断念していました。そこに旧国鉄の線路拡幅工事により水城跡の土塁が掘削されているという知らせを受け、太宰府参詣のときに、急遽水城の調査を行うことになりました。
調査では工事により削られた土塁の詳細な観察が行われ、積土の状況や敷粗朶が確認されました。黒板教授の報告書には、生々しい状態で出土した大量の木の葉や枝について、「千二百四十年経過せしとは想像する能はざるの感あり」と記されており、敷粗朶の発見が大変な驚きであったことがわかります。
また、調査に同行した久富寿年氏により線路東側の土塁断面のスケッチが描かれました。これには上成土塁・下成土塁が描かれ、褐色や灰色の線で版築が下部にはより濃い色で敷粗朶も表現されています。このスケッチは「筑前大宰府水城の一部切掘図」として東京大学の日本史学研究室に保管され、以後水城の構造を知る重要な手がかりとなりました。さらに、8月には、九州医科大学教授であった中山平次郎氏も調査に参加し、再度土塁を観察しました。両博士が行った精緻な調査の成果は重要な学術資料として今に残されています。

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地域創造部 心のふるさと館 文化財担当
電話:092-558-2206
ファクス:092-558-2207
場所:大野城心のふるさと館1階
住所:〒816-0934 福岡県大野城市曙町3-8-3

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