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大野城市

水城をめぐる11〈瓦窯〉/水城をめぐる12〈水城経塚〉

更新日:2019年12月5日

水城をめぐる11〈瓦窯〉

(広報「大野城」 平成26年6月15日号掲載)

瓦窯の写真

平成11年度、太宰府市教育委員会によって2基の瓦窯の発掘調査が行われました。今回はそのうちの1基(1号瓦窯)を紹介します。

場所・出土遺物

1号瓦窯は、東門跡から約170メートル南に離れた太宰府側下成土塁のすそで見つかり、大量の瓦と若干の須恵器が出土しました。

瓦窯の構造

発掘調査の結果、1号瓦窯は、窯体が傾斜せず平坦な平窯と呼ばれるつくりで、瓦を立て並べて焼成するロストルと呼ばれる焼台を備えていることが明らかになりました。また、前庭部(窯を焚くための作業をするところ)・焚口(燃料を投入するところ)・燃焼部(燃料を燃やすところ)・焼成部(瓦を焼くところ)が確認されました。

歴史的意義

出土遺物などから、1号瓦窯が使われていたのは8世紀中頃と考えられています。また、平窯で瓦を焼くのは、都を中心に確認されている技術です。
「日本書紀」に続いて平安時代に編さんされたわが国の正史である「続日本紀」には、天平神護元年(西暦765年)に「修理水城専知官」(水城を修理する専門の官人)が任命されたという記事があります。これらのことから、1号瓦窯は、「修理水城専知官」に任命された官人とともに都から九州にやって来た瓦を焼く技術者集団によって築造された、都と大宰府の直接的なつながりを現代に伝える貴重な遺構であると考えられます。このため、調査後には埋め戻されて大切に保存されています。


水城をめぐる12〈水城経塚〉

(広報「大野城」 平成26年7月15日号掲載)

 

経塚(きょうづか)の発見

水城跡(経塚)の写真水城経塚は、水城西門の土塁上で発見されました。(写真)このときの調査は西門に関連する積み土の状態を調べるためでしたが、掘り下げてみると、石組みとその周りを巡る溝が見つかりました。さらに石組みの部分を調査すると、30センチメートルほどの小さな石室が見つかり、経筒(きょうづつ)1本と短刀2本、飾金具やガラス玉などが出土しました。
また、経筒の中からは、炭化した経巻(きょうかん)・経軸(きょうじく)・短冊形の添え木が見つかっています。この様子から、経巻と添え木を紙でくるみ、経筒に納めていたと考えられています。

いつ経塚が造られたか?

水城跡で見つかった経塚は、経筒の形から 12 世紀前半から中頃のものと考えられており、水城築造から500年ほど経ったころに作られたものです。このころの水城は、門はまだ使われていたと考えられていますが、西門は経塚が作られていることから失われているのではないかと考えられています。

なぜここに経塚が造られたか?

経塚は、仏教が廃れた末法の世に経典を伝えるため、金属や土器で作られた容器にお経を入れて埋めたものです。11世紀頃にはじまり、山の高い所などで多く見つかります。
水城経塚は、それほど高い場所ではなく、なぜここに作られたのかはよく分かっていません。しかし、古代の人々は水城が大宰府の内と外の世界を分ける境と考えており、そうした場所に水城経塚を作ったのかも知れません。

このページに関する問い合わせ先

地域創造部 心のふるさと館 文化財担当
電話:092-558-2206
ファクス:092-558-2207
場所:大野城心のふるさと館1階
住所:〒816-0934 福岡県大野城市曙町3-8-3

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