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大野城市

水城をめぐる7〈木樋〉/水城をめぐる8〈敷粗朶〉

更新日:2019年12月5日

水城をめぐる7〈木樋〉

(広報「大野城」 平成26年2月15日号掲載)

「木樋」とは、木で作られた導水管のことです。
水城では、内濠から外濠へ水を流すために、土塁に直交して設置されていました。
これまでの発掘調査の結果、4カ所で発見されていて、これ以外にも存在する可能性があります。

木樋の大きさ・構造

東門近くで発見された木樋は、全長79.5メートルもありました。その高低差は11.5センチメートルで、北側(外濠側)がわずかに低くなっています。
その構造は、底板・側板・蓋を組み合わせて中に水を通す空洞を作り、断面は四角形の形をしています。底板は長さ6メートル以上、幅70センチメートル、厚さ26センチメートルの板を2枚横に並べ、これを鎹(かすがい)で留めています(下の写真)。
側板も大変大きく、木樋の内側の水が通る部分の大きさは幅116センチメートル×高さ78センチメートルにもなります。四つん這(ば)いになれば、大人でも充分に通れるほどです。
これらの板はヒノキを素材とし、手斧(ちょうな)やヤリガンナで丁寧に加工されています。大変高い木工技術が必要で、このような板を組んで作った木樋としては、全国最古の事例です。

木樋の位置

木樋は、下成土塁(下の段の土塁)を溝状に掘り込んで設置され、土をかぶせた後、さらに上へ土塁(上成土塁)が積まれていました。
つまり木樋の大部分は水城の土塁の中に埋まり、入口(取水口)と出口(吐水口)だけが露出し、内濠と外濠につながっていたことが分かっています。

木樋の中の写真(九州歴史資料館提供)
木樋の中の様子(九州歴史資料館提供)


水城をめぐる8〈敷粗朶〉

(広報「大野城」 平成26年3月15日号掲載)

水城跡の中央には御笠川が流れ、その周辺は湿地のため、地盤は軟弱です。土塁の重みによる地盤沈下や崩落を防ぐために、樹木の枝葉を何層も敷き並べながら積み土する「敷粗朶」工法と呼ばれる土木技術がみられます。

敷粗朶の発見・調査

記録として初めて残っているのは、明治24年、山田安栄編纂『伏敵編』「水城址図標」です。九州鉄道(現在のJR鹿児島本線)開削工事のときに観察された土塁断面から、木の葉や木の枝が使用されたことが指摘されています。
本格的な調査は、大正2年、JR鹿児島本線拡張に伴い実施されました。東京帝国大学黒板勝美教授は、「福岡県学術研究旅行報告書」に、若葉が多いことから、春から秋に築造されたと記しています。一方、九州医科大学中山平次郎教授は、大正3年「水城の研究」で、水城跡下成土塁深層の粘土質盛土から発見された敷粗朶は、枝葉が緑色で原型を保っていること、土層の堆積から築造当時のものと位置づけられると報告しています。

枝葉の樹種を確認

その後、敷粗朶は、九州歴史資料館によって数回調査され、出土した樹種同定の分析が実施されました。
使用された樹木は、クスノキ科、アカガシ、ツブラジイ、スダジイ、サカキ、ヤブツバキなどの暖温帯の常緑広葉樹やヤナギ科、ニレ科などの落葉広葉樹と同定されました。また、落葉樹には葉が着き、常緑樹の若葉や未成熟な果実も存在することから、晩春から夏(4月下旬から6月下旬頃)に伐採され敷き込まれたと考えられています。

敷粗朶の様子(九州歴史資料館提供)
敷粗朶の出土状況(九州歴史資料館提供)

このページに関する問い合わせ先

地域創造部 心のふるさと館 文化財担当
電話:092-558-2206
ファクス:092-558-2207
場所:大野城心のふるさと館1階
住所:〒816-0934 福岡県大野城市曙町3-8-3

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