民具展/糸車
更新日:2019年8月19日
大野城心のふるさと館では、発掘現場で見つかった遺物のほかに、さまざまな民具を紹介しています。
民具とは、人々が日常生活に必要で作った道具のことで、地域に受け継がれてきた生活を伝える貴重な資料です。心のふるさと館の民具はすべて市民の皆さんの寄贈(きぞう)で成り立っています。
寄贈された民具の中に「糸車(いとぐるま)」があります。
糸車
下の写真は「糸車」です。『千と千尋の神隠し』や『眠れる森の美女』にも出てきますが、知っていますか?
糸車とは?
「木綿車(もめんぐるま)」「紡車(つむぎぐるま)」「竹車(たけぐるま)」とも呼ばれ、主に綿花(めんか)の繊維をよりあわせ、糸を作るときに使う道具です。自給自足(じきゅうじそく)で生活する人が多かった50~60年前までは、家の中で大変役に立つ道具の一つでした。農家が大部分を占めていたころの大野城市でも、さかんに使われていました。
大きな竹製の車の隣に、糸を巻き取る棒を取り付ける台がついています。この棒のことを「つむ(紡錘)」といいます。車と「つむ」は、調べ糸という糸でつながっていて、車を回すと「つむ」も回転します。車の回転力により、綿や繭(まゆ)がよりをかけられて糸となります。
「たぬきの糸車」というお話を知っている人もいると思います。このお話は小学校低学年の国語教科書にのっていたこともありました。たぬきがおじいさんとおばあさんのために糸車で糸つむぎをします。このとき、糸車を動かす様子が「キーカラカラ、キークルクル」とユーモラスな文章で表現されています。
糸車を使う様子
大野城市の養蚕(ようさん)
大野城市では、綿のほかに蚕(かいこ)の繭(まゆ)の糸をよりあわせるときにも糸車を使ったようです。大野城市は昭和30年代まで養蚕がさかんでした。養蚕とは蚕という虫を育てることです。蚕は蛾(が)に変わるときに繭をつくります。繭になったところで糸を取り絹糸(きぬいと)にして出荷します。これは当時の大野城市に住む農家にとって、米づくりと同じくらい重要な現金の収入源でした。
大正13年4月発行の『筑紫郡の蚕業(さんぎょう)』という本には、筑紫郡一帯の蚕の取れ高を示した地図がのっています。大野城市(当時は大野村)は一万貫(いちまんかん=37,500キログラム)と最も多く、この産業に力を入れていたことがわかります。
取れ高
- 赤:一万貫(37,500キログラム)
- 青:三千貫から五千貫( 11,250から18,750キログラム)
- 黄色:三千貫以下(11,250キログラム以下)
筑紫郡養蚕地図(ちくしぐんようさんちず) 『筑紫郡の養蚕』より
養蚕に関する施設も揃っていて、現在大野城市役所のある場所には繭検定所(まゆけんていしょ)と桑畑(くわばたけ)が、イオン大野城(ショッピングセンター)のある場所には博多織(はかたおり)工場がありました。現在の地名が錦町(にしきまち)というのもこの博多織工場があったことに由来しています。当時市役所周辺には桑畑が広がっていて、学生たちは学校の帰り道に桑の実を取って食べたそうです。桑の実は非常に甘くて美味しかったそうです。
大野城市役所には、養蚕がさかんだったことを記念して桑の木が1本残され、毎年大きな葉を茂らせています。
今も残る桑の木
(大野城市役所南側玄関の左側にある自転車置き場のそば)
糸車のないころは
糸を作る歴史は古く、弥生時代にさかのぼります。この時代以降の遺跡からは、真ん中に穴の空いた平たい石の円盤(えんばん)がたくさん見つかっています。これは「紡錘車(ぼうすいしゃ)」の底にある重りと考えられています。
紡錘車は糸車より以前にあった糸を作る道具です。繊維を少し巻きつけて、地面などでコマのように回転させ、よりをかけました。この道具は糸車ができたあとでも素材や形を変えて使われてきました。主に山村の人々が麻糸(あさいと)や衣服を作ったり、漁村で魚取りの網つくりをするのに役立ったそうです。
紡錘車復元・糸をよる様子
(今回は見やすくするために青色の毛糸を使っています。)
今は、家で糸や布を作ることはほとんどなく、糸車が動くところをみることもあまりありません。しかし、これらを生み出す技術はかなり昔からあり、技術を考え出し支え続けた人々の発想はとても素晴らしいものではないでしょうか。
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