おおのじょうの遺跡/上大利の弥生時代
更新日:2020年1月28日
上大利(かみおおり)では現在区画整理事業が進められており、事業に先立って平成13年度から発掘調査を実施しています。事業地内では、縄文(じょうもん)時代から中世(ちゅうせい)まで様々な遺構(いこう)や遺物(いぶつ)が見つかっています。今回はその中でも弥生(やよい)時代の遺跡に焦点をあててゆきます。
大野城市の周辺で弥生時代遺構や遺物としてすぐに思い出されるのは、春日市岡本遺跡など王の墓を含めた『奴国(なこく)』に関連した遺跡です。『奴国』の中心となる集落の範囲は、北は現在の岡本や須玖(すく)から南は九州大学筑紫キャンパスまでのびており、上大利地区はキャンパスから南へ約700メートルくらい離れた所にあります。弥生時代の大野城市はこの『奴国』の範囲に含まれていたと考えられています。その生活や人の営みをご覧ください。
上大利の遺跡
遺跡は牛頸山(うしくびやま)から北側にのびる丘陵のうち、現在日の浦池(ひのうらいけ)となっている大きな谷から南西にのびる小さな谷にあります。北東に約350メートル離れたところには、牛頸窯跡群(うしくびかまあとぐん)最古の野添6号窯があります。調査地の近くでは多数の須恵器(すえき)窯が調査されており、三兼池(みかねいけ)のある大きな谷筋には、内部から鉄刀(てっとう)や耳環(じかん:イヤリング)などが出土した梅頭遺跡(うめがしらいせき)1次調査1号窯跡や、耳環の出土した2次調査1号窯跡、カマド塚が確認された3次調査2号窯跡が分布しています。
上大利地区の主な遺跡分布図
- 1 池田・池ノ上遺跡:JR大野城駅より南ヶ丘方面へむかう道路建設の際、調査された遺跡です。官道(かんどう)と呼ばれる大宰府から博多を結ぶ古代の道路跡が確認されています。
- 2.4.5.8.9 本堂遺跡:上大利交差点の西側の丘陵に位置します。平成13年度に調査を実施した1次調査では8世紀終わりごろ(奈良時代後期)の竪穴住居跡から粘土が出土しており、須恵器工人の工房(こうぼう)と考えられます。現在上大利交差点横で継続している2次調査地では、幅4から5メートルの溝を巡らす建物群があり、調査の結果が期待されます。
- 3 梅頭遺跡:三兼池(みかねいけ)の周辺に広がる遺跡です。平成13年度に調査を実施した1次調査では6世紀終わりごろ(古墳時代後期)の窯跡の中から鉄刀(てっとう)・鉄鏃(てつぞく)・耳環(じかん)などが出土し、窯跡の操業(そうぎょう)終了後、墓に転用したと思われます。現在調査中の窯跡からも耳環が出土し、墓に転用された可能性があります。また斜面からは大量の須恵器・土師器・瓦が出土しており、この附近に工人の作業場があったと考えられます。
- 6 上園遺跡:上大利3丁目を中心に広がる遺跡です。5世紀終わりごろ(古墳時代後期)と11から12世紀(平安時代後期)の集落が確認され、須恵器を多量に出土することから、須恵器つくりの工人(こうじん)の村ではないかと考えられます。
- 7 出口遺跡:弥生時代から奈良時代の遺構が確認されたほか、旧石器時代の石器も出土しており、周辺で活動があったことを伺わせます。
- 10 小水城周辺遺跡:小水城跡のすぐ北側にあり、県道31号線の拡幅工事の際調査がされました。溝や掘立柱建物が確認され、11から12世紀(平安時代後期)の土器が出土しました。また完全な形の鏡も出土しています。
- 11 小水城:水城と一連となって大宰府を防衛していました。丘陵間の谷部に造られ規模が小さいことから小水城と呼ばれます。ここは地名をとって上大利小水城と呼ばれていて、春日市でも3ケ所で確認されています。
- 12.15.16 野添遺跡群:野添窯跡群よりさらに南側に分布しています。13年度実施した2次調査では7世紀後半(飛鳥時代)の竪穴式住居跡と8世紀終わりごろ(奈良時代後期)の窯跡が確認されました。窯跡の灰原(はいばら)からは分銅(ふんどう)形のおもりが出土し、こうしたものが出土するのは非常に珍しいものです。この南側の山では6世紀終わりごろ(古墳時代後期)の窯跡2基が確認されました。
- 14 大浦窯跡群:南ヶ丘の開発の際発見された窯跡です。7世紀前半から中ごろ(飛鳥時代)の窯跡で、須恵器だけでなく、瓦も同時に焼いていた窯跡として注目されます。
- 19 平田窯跡:紫台にあった窯跡群です。上大利地区内ではE・Fとされる2地点から2基の窯跡が確認されています。E地点は7世紀の初めごろ(飛鳥(あすか)時代)の窯跡が確認されています。F地点は6世紀終わりごろ(古墳時代後期)の窯跡が確認されています。
- 18.20.21 野添窯跡群:県道31号線よりやや南側に分布する窯跡群です。ここには牛頸窯跡群最古の窯跡である6世紀中ごろ(古墳時代後期)の野添6号窯跡がありました。
- 水城跡:大宰府防衛のため7世紀中ごろ(飛鳥時代)小水城や大野城などとともに造られた土塁(どるい)で、現在は長さ約1,2キロメートル、高さ約13メートルの規模を誇ります。
本堂遺跡
本堂(ほんどう)遺跡は区画整理地の最も北側にあたり、牛頸山(うしくびやま)からのびる丘陵の先端に位置します。つい最近まで田んぼとして利用されていた所で、遺跡は耕作にともなってかなり削られていますが、竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)や井戸・土坑(どこう)などが見つかりました。時期は弥生時代中期後半ごろと思われます。
井戸
本堂遺跡で見つかった井戸です。平面形は円形で、素掘(すぼ)りの井戸でした。遺構が見つかった面から約3メートル近く掘り下げると、井戸の底が現れましたが、底からは壺形(つぼがた)の土器(どき)が置かれていました。土器には赤い顔料(がんりょう)が塗られており、水が出るようにとおまつりに使われたものでしょう。
土器を捨てていた土坑
これも本堂遺跡で見つかった土坑(どこう)です。平面形は長方形の素掘りで深さは2メートル以上も掘り下げ、底からは水が湧き出していますが、形が先ほどの井戸とは違います。土坑の底から半分ほどはものすごい数の土器が捨てられており、赤く塗られたおまつりのどきも、日常使う土器も一緒に捨てられていました。
梅頭遺跡
梅頭遺跡は本堂遺跡より谷を上がったところにあり、古墳(こふん)時代の窯跡(かまあと)などが見つかっている遺跡です。その中にたった一つだけ弥生時代の甕棺墓(かめかんぼ)が見つかりました。甕棺墓は山の斜面にあり、大きさから子ども用と考えられます。時期は本堂遺跡の集落と同じ弥生時代中期後半と思われますが、この他に甕棺を含めて弥生時代の墓地は見つかっておらず、なぜこのような場所を選んで埋葬(まいそう)されたのかわかりません。
まとめ
このように上大利で弥生時代のムラが見つかりました。ムラの中心は、本堂遺跡から上大利の現在の集落にあると思われます。弥生時代の人は、牛頸山から下る丘陵がやや緩やかな傾斜に変わるこの土地にムラを作ったのでしょう。ムラの中には竪穴住居や掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)た立ち、水の確保に苦労したのか井戸が何本も掘られています。そしてムラから谷を上がったところにポツンと1つだけ甕棺(かめかん)があり、何らかの意味を感じさせます。
しかし、出土遺物の時期は弥生時代中期後半に限られており、ムラの存続した期間は非常に短かったようです。また上大利から南の牛頸の方は弥生時代の遺跡が少なく、あるいはここには森林が続いていたのかもしれません。ムラの移転した理由については明らかではありませんが、これは筑紫キャンパス内遺跡でも同様であり、弥生時代後期に移る時期に何らかの社会的な動きがあったのでしょう。
大野城市の弥生時代
大野城市の弥生時代の遺跡は川久保(かわくぼ)・大池(おおいけ)・曙町(あけぼのまち)などで見つかっており、特に中・寺尾(なか・てらお)遺跡(大池一丁目)や御陵前ノ椽(ごりょうまえのえん)遺跡(中二丁目)は弥生時代前期の甕棺墓地(かめかんぼち)として有名です。中期になると、森園(もりぞの)遺跡(川久保二丁目)や石勺(こくじゃく)遺跡(曙町二丁目)でムラが営まれていたことが分かっており、現在の福岡県身体障害者授産指導所ではこの時期の甕棺墓地がありました。
このように、これまではどちらかというと市内でも北側の平野部で弥生時代の遺跡が見つかっていました。これに対し、市内でも白木原より南側では弥生時代の遺跡が極端に少なく、上園(かみのその)遺跡(上大利二丁目)、池田・池の上(いけだ・いけのうえ)遺跡(上大利一丁目)、出口遺跡(下大利五丁目)など上大利二丁目周辺で見つかっていますが、これより南の旭ヶ丘(あさひがおか)・南ヶ丘・牛頸には遺跡の広がりが認められません。
上大利周辺で見つかった弥生時代の上園・池田・池の上・出口遺跡からは、竪穴住居跡や土坑などが見つかりましたが、調査した場所が限定されていたり出土する土器が少なかったりして集落の規模や時期がはっきりとは分かりませんでした。今回区画整理にともなう発掘調査では、事業地の最も北側に位置する田んぼの部分と三兼池(みかねいけ)のほとりからムラと甕棺墓が見つかりました。
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