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おおのじょうの遺跡/窯を墓に使うのなんでだろう?(梅頭遺跡第3次発掘調査現地説明会)

更新日:2019年5月29日

平成15年4月12日(土曜日)に行なわれた梅頭遺跡第3次発掘調査現地説明会では、九州で始めての発見となる窯跡にカマド塚の思想を取り入れた墳墓の見学、説明が行なわれました。説明会には地域の方々や考古学ファンが訪れ、最新の情報に熱心に聞き入っていました。

梅頭遺跡の場所

遺跡は牛頸山から北側にのびる丘陵がヤツデ状に分かれる丘陵のうち、現在三兼池(みかねいけ)になっている大きな谷から北に入り込む小さな谷に窯跡・住居跡が広がります。谷を下りると古墳時代の集落である上園(かみのその)遺跡、南南東約500メートルのところには牛頸窯跡群(うしくびかまあとぐん)最古の野添(のぞえ)6号窯跡があります。

梅頭遺跡の地図
上大利地区の主な遺跡分布図

  • 1 池田・池ノ上遺跡:JR大野城駅より南ヶ丘方面へむかう道路建設の際、調査された遺跡です。官道(かんどう)と呼ばれる大宰府から博多を結ぶ古代の道路跡が確認されています。
  • 2.4.5.8.9 本堂遺跡:上大利交差点の西側の丘陵に位置します。平成13年度に調査を実施した1次調査では8世紀終わりごろ(奈良時代後期)の竪穴住居跡から粘土が出土しており、須恵器工人の工房(こうぼう)と考えられます。現在上大利交差点横で継続している2次調査地では、幅4から5メートルの溝を巡らす建物群があり、調査の結果が期待されます。
  • 3 梅頭遺跡:三兼池(みかねいけ)の周辺に広がる遺跡です。平成13年度に調査を実施した1次調査では6世紀終わりごろ(古墳時代後期)の窯跡の中から鉄刀(てっとう)・鉄鏃(てつぞく)・耳環(じかん)などが出土し、窯跡の操業(そうぎょう)終了後、墓に転用したと思われます。現在調査中の窯跡からも耳環が出土し、墓に転用された可能性があります。また斜面からは大量の須恵器・土師器・瓦が出土しており、この附近に工人の作業場があったと考えられます。
  • 6 上園遺跡:上大利3丁目を中心に広がる遺跡です。5世紀終わりごろ(古墳時代後期)と11から12世紀(平安時代後期)の集落が確認され、須恵器を多量に出土することから、須恵器つくりの工人(こうじん)の村ではないかと考えられます。
  • 7 出口遺跡:弥生時代から奈良時代の遺構が確認されたほか、旧石器時代の石器も出土しており、周辺で活動があったことを伺わせます。
  • 10 小水城周辺遺跡:小水城跡のすぐ北側にあり、県道31号線の拡幅工事の際調査がされました。溝や掘立柱建物が確認され、11から12世紀(平安時代後期)の土器が出土しました。また完全な形の鏡も出土しています。
  • 11 小水城:水城と一連となって大宰府を防衛していました。丘陵間の谷部に造られ規模が小さいことから小水城と呼ばれます。ここは地名をとって上大利小水城と呼ばれていて、春日市でも3ヶ所で確認されています。
  • 12.15.16 野添遺跡群:野添窯跡群よりさらに南側に分布しています。13年度実施した2次調査では7世紀後半(飛鳥時代)の竪穴式住居跡と8世紀終わりごろ(奈良時代後期)の窯跡が確認されました。窯跡の灰原(はいばら)からは分銅(ふんどう)形のおもりが出土し、こうしたものが出土するのは非常に珍しいものです。この南側の山では6世紀終わりごろ(古墳時代後期)の窯跡2基が確認されました。
  • 14 大浦窯跡群:南ヶ丘の開発の際発見された窯跡です。7世紀前半から中ごろ(飛鳥時代)の窯跡で、須恵器だけでなく、瓦も同時に焼いていた窯跡として注目されます。
  • 19 平田窯跡:紫台にあった窯跡群です。上大利地区内ではE・Fとされる2地点から2基の窯跡が確認されています。E地点は7世紀の初めごろ(飛鳥<あすか>時代)の窯跡が確認されています。F地点は6世紀終わりごろ(古墳時代後期)の窯跡が確認されています。
  • 18.20 野添窯跡群:県道31号線よりやや南側に分布する窯跡群です。ここには牛頸窯跡群最古の窯跡である6世紀中ごろ(古墳時代後期)の野添6号窯跡がありました。
  • 水城跡:大宰府防衛のため7世紀中ごろ(飛鳥時代)水城や大野城などとともに造られた土塁(どるい)で、現在は流失が進み、築造当初の規模は分かりませんが、今でも長さ80メートル、幅15メートル、高さ2メートルの規模を誇ります。

何が見つかったの?

この遺跡では窯跡(かまあと)と住居跡・土坑(どこう)が見つかりました。
窯跡は2基発見され、2号窯は九州で始めての発見がありました。

2号窯の全長は約10.44メートル、幅約1.,45から1.95メートルです。窯跡は操業(そうぎょう)後、壁や床を削り、焚口部の壁には厚さ7から15センチ、高さ32から92センチの粘土の壁が貼られていました。また、粘土の壁と直行するように2列の柱穴が掘られ、その間には炭が広がっていました。

第2号窯跡写真
第2号窯跡

何がわかったの?

今回の調査で2号窯から見つかった粘土の壁や柱穴、炭の広がりは、これでまでに調査されたことはなく、大変注目されます。

焚口部の様子の写真
焚口部の様子

窯は本来須恵器を焼くものですが、窯の入口を塞ぐような配置をしていることから、須恵器を焼いていた当時には関係ない施設であると考えられます。

このような遺構の例については、近畿・東海地方を中心として分布する横穴式木室(よこあなしきもくしつ)(カマド塚)に類似した遺構である可能性があります。

これは古墳時代後期のお墓の一種で、内部に火を焚いた痕跡があるものがあります。火は仏教的な火葬(かそう)とは異なりますが、遺体を焼くために焚かれたものです。

近畿・東海地方では横穴式木室などとともに築造されています。しかし、今回の調査のように窯跡を利用したものではありません。本調査地の周辺では、第3次調査2号窯跡とほぼ同じ時期のもので、窯跡から鉄刀(てっとう)・鉄鏃(てつぞく)・耳環(じかん)などが出土し、窯をお墓に転用した事例があることから、2号窯跡は窯を掘り整え、柱と粘土で部屋を作り、内部で遺体を焼いた可能性があると考えられます。

被葬者(葬られた人)は、窯跡を利用していることから須恵器工人(すえきこうじん)(職人)であることは間違いありません。また粘土・柱で部屋を作り、遺体を火をかける行為は九州内では行なわれていないので、同じ時期に近畿・東海にあった横穴式木室の発想を取り入れた可能性があります。このことは牛頸窯跡群(うしくびかまあとぐん)の工人とこれらの地域の交流を物語る資料となるもので、今後さらに検討を加える必要があります。

2号窯跡の構造を想定したイラスト
2号窯跡の構造想定図

このページに関する問い合わせ先

地域創造部 心のふるさと館 文化財担当
電話:092-558-2206
ファクス:092-558-2207
場所:大野城心のふるさと館1階
住所:〒816-0934 福岡県大野城市曙町3-8-3

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