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大野城市

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おおのじょうの遺跡/須恵器つくりが伝わった頃(上大利発掘調査成果報告会資料より)

更新日:2019年11月18日

平成14年11月4日(月曜日)に行われた上大利発掘調査成果報告会には地域の人たちや考古学ファンが訪れ、最新の情報に熱心に聞き入っていました。

(1)はじめに

上大利地区は大野城市の中央部からやや南側にあり、福岡平野部から背振山塊(せふりさんかい)へむかう丘陵の先端部に位置します。この地域には6世紀中頃(古墳時代後期)、須恵器(すえき)と呼ばれる灰色で硬質(こうしつ)の焼物を焼く窯跡(かまあと)が作られます。以降9世紀前半にかけて、南の牛頸(うしくび)地区を含めて周辺で300基を越える窯が作られ、『牛頸窯跡群』と総称される古代の大須恵器生産地となります。このように時間的・空間的にもまとまった窯跡群は全国でも大阪府陶邑(すえむら)窯跡群・愛知県猿投(さなげ)窯跡群のほかになく、非常に重要な窯跡群と言えます。今回は上大利地区で区画整理事業にともなう発掘調査が平成13年より本格化し、新たな発見があり、また以前の調査と合わせて、須恵器つくりがはじまったころの上大利地区の歴史について紹介します。

報告会の様子の写真
報告会の様子

(2)上大利地区の地形と地質

上大利地区は、背振山塊から北へのびる丘陵の先端部に位置します。今回取り上げるのは昔の上大利村である大字上大利の範囲にある遺跡です。現在の町名でいくと、北は中央2丁目・下大利1丁目、南は紫台・緑ヶ丘・南ヶ丘2丁目の範囲にあたります。
現在は都市化が進み、本来の地形は分かりにくくなっていますが、昔の地図を見ると、今の南ヶ丘四つ角から下大利ダイエーへ向かう道が谷にあたり、左右両側には丘陵がせまっていたことが分かります。丘陵は花崗岩(かこうがん)の風化した土で形成されますが、今年の調査で阿蘇4(あそよん)テフラと呼ばれる阿蘇山(あそさん)の火砕流(かさいりゅう)の堆積土(たいせきど)が確認されました。これは今から約9万年前に起こった噴火(ふんか)活動で発生した火砕流が到達したことを示すもので、層中には炭や軽石などが含まれていました。

(3)上大利地区の主な遺跡解説

  • 1 池田・池ノ上遺跡:JR大野城駅より南ヶ丘方面へむかう道路建設の際、調査された遺跡です。官道(かんどう)と呼ばれる大宰府から博多を結ぶ古代の道路跡が確認されています。
  • 2.4.5.8.9 本堂遺跡:上大利交差点の西側の丘陵に位置します。13年度に調査を実施した1次調査では8世紀終わりごろ(奈良時代後期)の竪穴住居跡から粘土が出土しており、須恵器工人の工房(こうぼう)と考えられます。現在上大利交差点横で継続している2次調査地では、幅4から5メートルの溝を巡らす建物群があり、調査の結果が期待されます。
  • 3 梅頭遺跡:三兼池(みかねいけ)の周辺に広がる遺跡です。平成13年度に調査を実施した1次調査では6世紀終わりごろ(古墳時代後期)の窯跡の中から鉄刀(てっとう)・鉄鏃(てつぞく)・耳環(じかん)などが出土し、窯跡の操業(そうぎょう)終了後、墓に転用したと思われます。現在調査中の窯跡からも耳環が出土し、墓に転用された可能性があります。また斜面からは大量の須恵器・土師器・瓦が出土しており、この附近に工人の作業場があったと考えられます。
  • 6 上園遺跡:上大利3丁目を中心に広がる遺跡です。5世紀終わりごろ(古墳時代後期)と11から12世紀(平安時代後期)の集落が確認され、須恵器を多量に出土することから、須恵器つくりの工人(こうじん)の村ではないかと考えられます。
  • 7 出口遺跡:弥生時代から奈良時代の遺構が確認されたほか、旧石器時代の石器も出土しており、周辺で活動があったことを伺わせます。
  • 10 小水城周辺遺跡:小水城跡のすぐ北側にあり、県道31号線の拡幅工事の際調査がされました。溝や掘立柱建物が確認され、11から12世紀(平安時代後期)の土器が出土しました。また完全な形の鏡も出土しています。
  • 11 小水城
  • 12.15.16 野添遺跡群:野添窯跡群よりさらに南側に分布しています。13年度実施した2次調査では7世紀後半(飛鳥時代)の竪穴式住居跡と8世紀終わりごろ(奈良時代後期)の窯跡が確認されました。窯跡の灰原(はいばら)からは分銅(ふんどう)形のおもりが出土し、こうしたものが出土するのは非常に珍しいものです。この南側の山では6世紀終わりごろ(古墳時代後期)の窯跡2基が確認されました。
  • 14 大浦窯跡群:南ヶ丘の開発の際発見された窯跡です。7世紀前半から中ごろ(飛鳥時代)の窯跡で、須恵器だけでなく、瓦も同時に焼いていた窯跡として注目されます。
  • 19 平田窯跡:紫台にあった窯跡群です。上大利地区内ではE・Fとされる2地点から2基の窯跡が確認されています。E地点は7世紀の初めごろ(飛鳥(あすか)時代)の窯跡が確認されています。F地点は6世紀終わりごろ(古墳時代後期)の窯跡が確認されています。
  • 18.20 野添窯跡群:県道31号線よりやや南側に分布する窯跡群です。ここには牛頸窯跡群最古の窯跡である6世紀中ごろ(古墳時代後期)の野添6号窯跡がありました。
  • 水城跡:大宰府防衛のため7世紀中ごろ(飛鳥時代)水城や大野城などとともに造られた土塁(どるい)で、現在は流失が進み、築造当初の規模は分かりませんが、今でも長さ80メートル、幅15メートル、高さ2メートルの規模を誇ります。

上大利地区の主な遺跡分布をしるした地図
上大利地区の主な遺跡分布図

(4)遺跡から見た上大利地区の歴史的意義

以上のように、上大利地区ではたくさんの遺跡が見つかっています。古くは旧石器時代から人間の活動が認められ、以後連綿と活動の跡が残されています。中でも特に注目されるのは、野添6号窯跡をはじめとする須恵器窯跡や工人の集落です。古墳時代の終わりごろ、ここに須恵器つくりの工人がやってきて窯を造ります。須恵器つくりという作業は

  1. 窯を掘る技術
  2. ロクロを使って器を作る技術
  3. 窯焚きの技術

といった専門的な高い技術が必要です。それまで各集落では生活に使う器として「土師器(はじき)」が作られていました。これはロクロを使用せず、窯も必要としない弥生時代以来の伝統的な土器つくりの方法でした。
しかし、5世紀になると朝鮮半島から須恵器つくりの技術者が渡来します。彼らの技術は当時の権力者により掌握され、その意思の基に生産を行ないます。上大利に来た工人たちもそうした権力者によって連れてこられたと考えられます。
この後、工人は上大利地区や周辺でたくさんの窯を作り、たくさんの須恵器を造りました。作られた製品は、古墳時代には福岡平野の各所にある古墳に収められ、奈良時代になると「天下一の都会」と謳われた大宰府へ納められました。上大利はそうした窯のはじまりの地であり、日本有数の窯跡群である牛頸窯跡の開始期の姿を考える上でも重要な地域です。
現在区画整理事業による調査で、梅頭遺跡第1次調査のように窯を墓に転用したり、工人集落の確認など牛頸窯跡群を研究する上で重要な発見が相次いでいます。これらは上大利地区の歴史だけではなく、九州の歴史にとって非常に重要であり、その特徴は全国的にも重要です。
今後区画整理地内や周辺で埋蔵文化財の発掘調査を実施していきますが、こうした地域の重要性に注意しながら調査を行っていきたいと考えてます。

梅頭遺跡1次調査の様子の写真
梅頭遺跡1次調査の様子(「大野城市の文化財」第34集より)

(5)質疑応答

参加者から以下のような質問が出ました。

Q:野添窯跡が最も古い窯跡という話でしたが、時代が新しくなるにつれて窯が造られる場所に傾向が見られますか。

A:傾向としては牛頸の山奥へ行くほど新しい窯が見つかると言えます。窯で須恵器を焼くには大量の燃料が必要となります。窯の周辺の木々を切り倒し、薪として使用していたのでしょう。木々がなくなり燃料が供給されなくなると、奥の丘陵へと移動していたと考えられます。

この日は、梅頭遺跡で見つかった鉄刀や鉄鏃、耳環、土器などの展示も行われました。鉄刀のはばき部分で見つかった象嵌のX線写真や拡大顕微鏡での銀糸実見など、参加者から驚きの声があがりました。

古代人の技術水準の高さに感心する参加者の様子の写真
古代人の技術水準の高さに感心する参加者の様子

このページに関する問い合わせ先

地域創造部 心のふるさと館 文化財担当
電話:092-558-2206
ファクス:092-558-2207
場所:大野城心のふるさと館1階
住所:〒816-0934 福岡県大野城市曙町3-8-3

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