おおのじょうの遺跡/本堂遺跡
更新日:2019年11月18日
このコーナーでは、大野城市内で調査された遺跡について紹介します。まず1回目は2001年4月より調査を実施している本道遺跡を紹介します。
粘土が見つかった住居跡
写真2
この住居跡のやや右上に白く見える固まりが粘土です。住居の床面に薄く広がり、調査中、粘土を見つけた時はまだ軟らかい状態でした。おそらくこの粘土は須恵器という焼き物を作るための粘土で、この住居跡が須恵器作りの工房であったと考えられます。
粘土を溜めた土坑
写真3
先の住居跡からやや離れた所に、地面を四角に掘り込んで中に粘土を溜めた土坑がありました。写真の中央に写っている土坑の中に白く光っているのが粘土です。粘土の厚さは約15センチほどもあり、中からはまったく割れていない須恵器が見つかりました。このことから、この土坑で見つかった粘土は当時ドロドロの状態であったと考えられ、中から見つかった須恵器はドロドロの粘土をすくうためのものであったのが、ある時誤って落としてしまったと考えられます。また、この粘土も須恵器作りに使われたと思われ、工房と考えられる住居跡の周りにある粘土の貯蔵場と考えられます。
粘土を捨てた土坑
写真4
写真3の粘土を溜めた土坑の外、粘土を捨てた土坑も見つかっています。写真中央の土坑に白く見えるのが粘土の固まりですが、先の粘土とは違い、土や焼け損ねの須恵器が混じっており、使用できなくなった粘土を捨てた土坑のようです。
掘建柱建物跡
写真5
本堂遺跡からは写真に見えるような柱を立てた高床構造の掘建柱建物跡も見つかっています。住居用とか穀物を収納する倉などとも考えられますが、あるいは作った須恵器を乾燥させたり、製品を一時保管する場所であったかもしれません。
谷にかかる橋
写真6
本堂遺跡は東西方向にのびる小さな谷によって北と南に集落が分かれています。この谷を掘り下げた所、集落をつなぐような橋と思われる杭を打った施設が見つかりました。板を渡している部分が橋であったと推測される所です。
調査の結果、本堂遺跡は須恵器を作る人たちの工房跡があったと考えられます。時代は奈良時代の終わりごろ、8世紀中ごろから後半にかけてのことです。これまでの調査で周辺では古墳時代の集落や須恵器を焼く窯跡が見つかっています。また集落からは焼け損ねた須恵器や粘土が見つかっており、本堂遺跡と同じく須恵器を作る工房があり、工人たちが暮らしていたようです。
6世紀の中ごろ、大野城市上大利地区では須恵器を焼く窯が作られ、以後8世紀の終わりごろにかけて山のあちこちで窯が作られつづけます。その数は300基とも500基とも言われています。本堂遺跡はまさに須恵器を作る工人の集落であり、特に奈良時代の須恵器生産集落が見つかったのはこの地域では初めてです。この時期、焼かれた須恵器は九州の政務を司る大宰府に納められました。今後の調査で近くに同じ時期の窯跡が見つかれば、須恵器生産の場所と使われた場所が明らかになり、生産から流通・消費にいたるシステムが具体的な形でわかります。今後の調査が期待されます。
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