盗人の宮(ぬすっとのみや)(下筒井)
更新日:2020年6月16日
下筒井のお宮は、九郎天神社または黒男神社とも言いますが、別名「盗人の宮」とも呼ばれています。
黒田藩主(くろだはんしゅ)初代長政(しょだいながまさ)のとき、城下町博多に住んでいた正直な若者が、身に覚えがないのに盗人のぬれぎぬをきせられました。奉行所(ぶぎょうしょ)に行って自分は盗人でないことを弁解したしたくても、その証拠はないのです。本当の盗人を見つけ出して奉行所に連れて行く以外には、助かる方法はありませんので、仕方なくしばらくの間身をかくして、犯人を自分で探すことにしました。
若者を捕らえに行った役人は、逃げたことを知って追いかけました。若者は博多から二里の道を一気に歩きつづけ、雑餉隈(ざっしょのくま)までのがれて来ました。そこには三十数軒の人家があり、茶店もあって往来の人が休んでおります。あまり急いできたので喉が乾き、一軒の茶店でお茶を飲んでいますと、表を通る人が「役人が街道ぞいの村々で盗人を探しながら、こちらにやって来るが、とても恐ろしいことだ」と話しながら通るのを聞いて、追手が近くまで来ていることを知り、急いで立上り小走りに逃げて筒井村に入りました。
ここは筑前国那珂郡と御笠郡の境です。二十軒ばかりある筒井村の入口の街道の脇に、楠・松・杉などの老樹がうっそうと繁った大きな森がありました。若者はこの森にかくれることにしました。
森の奥に古い祠があります。それが天神様の祠であることを知った若者は、遠い昔藤原時平らのためにおとしいれられ、無実の罪をきせられて太宰府に流された菅公と、ちょうど今の自分が同じ境遇であることを思えば涙がこみあげ、どうぞ助けてくださいと一生懸命お願いしました。この若者が正直者であったので、天神様も願を聞き入れ、祠のかげにかくまってくださったのでしょうか、役人はすぐ側まで来ましたが、とうとう探し出すことができず、すごすごと奉行所へ帰って行きました。
天神様のおかげで捕らえられずにすんだ若者は、さんざん苦心して本当の盗人を探し出し、奉行所に連れて行って汚名をはらすことができました。
それからこのお宮を「盗人の宮」というようになったということです。
黒男神社
創建の時期は不明であり、祭神にも種々の説があります。しかし、元禄元年(げんろくがんねん)(1688)に着手し、宝永(ほうえい)六年(1709)に完成した貝原益軒(かいばらえきけん)『筑前続風土記』(ちくぜんしょくふどき)に、上で紹介した伝説が載せてあるので、それ以前の創建であることには間違いありません。
盗人の宮と呼ばれる理由にはもう一説あります。
太宰府安楽寺の寺務を統轄(とうかつ)する最高の職は別当(べっとう)といって、菅原氏一族の中から選ばれていましたが、平安後期頃になると京都で任命されても、太宰府に赴任しない人もあり、鎌倉時代には完全に名目だけとなりましたので、安楽寺に含まれる太宰府天満宮の留守職(るすしょく)が、寺務をとり行うようになったといわれています。その留守職が筒井の天神社の祭祀も司っていましたので、留守殿(るすどの)の宮と言っていたのがなまって、ぬすとの宮というようになったとも言われています。
現在の黒男神社
下筒井と上筒井
現在では下筒井と上筒井に分かれている行政区ですが、もともとは筒井村として一つにまとまっていました。しかし、昭和21年4月1日に、筒井村が牛頸区についで二番目に人口が多く、戦後の配給制度の事務が大変だったため、分区の要望が高まり実施されました。
筒井区は筒井村と呼ばれていた江戸時代から「町」、「宿」、「村」の三地区に分かれていました。下筒井は現在の錦町と筒井1丁目、筒井2丁目の一部にあたります。
上筒井のお宮は宝満神社です。
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