庄屋に化けた古狸(上筒井)
更新日:2018年10月2日
黒田の殿様から脇差帯刀(わきざしたいとう)を許された筒井村庄屋四代目善六は、周囲に堀をめぐらし、庭内には楠(くすのき)・銀杏(いちょう)・松・樫(かし)などの老樹がそびえる広大な屋敷に住み、黒田藩の武士の娘で、心やさしくたしなみ深い、大そうきれいな妻を迎えて暮らしておりました。
ある日、年貢米(ねんぐまい)を納めるための打ち合わせに、1泊の予定でお城下町博多に出かけて行きましたが、夕方になると突然帰宅しました。大変心配した妻はどこか体の具合が悪いのかと尋ねましたが、どこも悪くないと答えるだけです。夕食の膳(ぜん)についた夫を見ると、右手に箸(はし)を持っているではありませんか。夫は左利きであったはずです。それに今朝持たせてやった財布の模様も違います。便所へ行くときも廊下を間違えて裏口のほうへ行こうとしてしまいました。毎日かかしたことのない大好きな風呂にも入ろうとせず、習慣になっている日記もつけようとしません。
いつもと様子が違うので、妻はずっと目を離さずに監視を続けていました。そしていつもの時間よりも早く休みたいという夫のために床(とこ)をのべ、隣の室の襖(ふすま)からそっとのぞいてみました。すると着物も着替えずじっと座っている夫の後姿に、尻尾がのぞいているではありませんか。武士の娘に育った気丈(きじょう)な妻は懐剣(かいけん;護身用の短剣)をしのばせて、何食わぬ顔で怪物である夫のそばに近づき、心臓のあたりを剣も折れよとばかりに一突きしました。怪物は「ギャー」と絶叫しながら、勝手口から外へ逃げていきました。
家中の者がその悲鳴を聞いてかけつけました。事情を聞いて提灯(ちょうちん)をつけて、屋敷のまわりを探しますと、血痕(けっこん)が点々と屋敷の隅の楠の老樹の根方まで続き、老木のほら穴の中に消えています。灯りを差し出すと、そこには年古りた狸が絶命しておりました。
やさしくてきれいな庄屋さんの奥さんを好きになった古狸が、主人の留守の間に主人に化けて、奥さんに近づこうとしたのだと、近所の人はうわさしたということです。
庄屋善六について
庄屋善六は正保(しょうほ)2年(1645年)の初代善六から明治維新(めいじいしん)(1868年)までの、10代220年余りにわたり父子相伝(ふしそうでん)で庄屋を務め、庄屋になると善六を襲名(しゅうめい)し、江戸時代の地方自治の最先端にあってその重責を果たしていました。
歴代の庄屋のうち四代目の宝永元年(ほうえいがんねん)(1704年)に黒田藩第四代藩主網政公から脇差帯刀(わきざしたいとう)を許され、六代目の安永(あんえい)年間(四年(1775年)頃)第七代藩主治之公に雑賞隈お茶屋(ちゃや)を献上し、八代目の文化九年(1812年)9月27日には日本地図作成のために筑前国地方の測量に訪れた伊能忠敬一行が、当家に宿泊した事が、『測量日記』に記されています。
注:伊能忠敬と大野城市の関係については、おおのじょうの史跡「伊能忠敬と日本地図」をご覧ください。
雑賞隈お茶屋跡
「雑賞隈お茶屋跡」は県道112号線錦町1丁目の交差点から約120メートルほど北を西に20メートル入ったところにありました。平成8年(1996)2月に取り壊され現在は駐車場になっていますが、お茶屋の門跡だけは残っています。
お茶屋は別館ともよばれて宿場町にあり、藩主の領内巡視の時に休憩宿泊するための施設です。「雑賞隈お茶屋」は安永年間(1772から1781)に筒井村に住む庄屋の第六代善六が黒田藩第七代藩主治之公に献上したものです。
筒井村の善六は正保2年(1645)に初代善六が庄屋となり、明治5年(1872)までの227年間歴代庄屋を勤め善六を襲名(しゅうめい)しています。四代善六は脇差帯刀を許され六代善六がお茶屋を献上し、八代善六の時には島津斉興公が参勤交代の時に「雑賞隈お茶屋」で休憩され、そのお礼として芭蕉布(ばしょうふ)を2反下賜されています。
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