父子嶋(ててこじま)(下大利)
更新日:2020年3月2日
水城(みずき)の土塁(どるい)を築くため御笠、長岡、次田、大野郷の村々はもちろん、近国の農民達がかりあつめられました。朝鮮半島から難をのがれてきた人たちも混じっています。鍬(すき)で土を掘り、モッコをかついで運び、運んだ土はタコで突き固め、またその上に土を置いては突き固め、だんだん土塁は高くなっていきますが、連日の作業に農民達は疲れきっております。しかし、海の向こうの異国の軍隊が攻めてくるのを防ぐための土塁と聞いていますので、手を休めるわけにはいきません。来る日も来る日も前面の濠(ほり)を掘り、また近くの丘を削って、その土を土塁の上に運んでつき固める作業は続きました。
この公役(くやく)にかり出されている農民に大里(おおり)の里に住む父子がおりました。今日もモッコに土を入れて、子は前を父は後ろをかついで、朝から何回となく土塁の上まで往復しております。もう日暮れも近くなり、肩も腰も折れんばかりに疲れていますが、それでも一荷の土を前後にかついで、土塁の近くまで来ました。その時土塁の上から「わぁー」という喚声(かんせい)が聞こえてきました。こ踊りしながらとんで来た男が「土塁ができたぞう」と叫んでおります。父子はその声を聞くといっぺんに力がぬけて、へなへなと座り込んでしまい、かついでいた土をその場に投げ出してしまったのが、土饅頭のように盛り上がりました。
その場所が今の大野城市下大利の、JR水城駅西側の小高いところであるといわれ、それからこの地名を父子嶋(ててこじま)と呼ぶようになったということです。
水城大堤
水城は西暦664年に造られた堤です。福岡平野のもっとも狭小となる場所に造られました。規模は長さ1.2キロメートル、基底部の幅80メートル、高さは10メートルを超え、すべてが人工の盛土から出来ています。『日本書紀』の一節に「大堤を築きて水を貯えしむ」と書かれていますが、これは博多湾側に濠を設けて水を貯えたことが、発掘調査の結果からわかっています。東西2カ所の門や大宰府側から博多湾側の濠へ導水する巨大な木樋(もくひ)が明らかとなっています。
大野城跡から見た水城
水城の土木技術
水城の土塁は粘土や砂などを交互につき固めて盛り上げています。この技法を「版築工法(はんちくこうほう)」といいます。周りを板で囲み(堰板;せきいた)、棒状の叩き道具(突棒;つきぼう)を使います。水城の調査では突棒の跡も見つかりました。
版築の作業風景
現在、私たちが水城を見ることができるのも、版築工法によってしっかりと造られているからです。
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