底なし沼の人柱(牛頸)
更新日:2019年11月18日
牛頸のイガイ牟田(いがいむた)の沼地のほとりで、一服していた山田のお百姓さんが、誤って愛用のキセルを沼の中に落としてしまいました。しまったと思いましたが、この沼は底なし沼と呼ばれて、沼の中に落ちたものは絶対に浮かび上がって来ないと言われていますので、入って探すわけにはいきません。大変惜しくて残念でたまりませんが、とうとう諦めて家に帰りました。
現在のイガイ牟田池の様子
それから数カ月たって、自宅の井戸浚(さら)えをしていますと、底の方で光るものがあります。拾い上げて水で洗ってみますと、牛頸の底なし沼に落とした愛用のキセルなのです。お百姓さんはびっくりしながらも、大変喜んで会う人ごとにこの話をしました。それから牛頸の底なし沼は、山田の井戸まで続いているという噂が広がりました。
また、牛頸に住む伊三郎という人が天狗松の天狗さんから、この沼は底なし沼だからどんなに長いもので計ってみても、深さを計ることはできないと聞いたものですから、長い長い矛を百本も準備して、継ぎ足しながら沼の中に突き刺して、とうとう九十九本を使いましたが底にとどきません。そして最後の百本目も沼の中にめりこんでしまいましたので、力尽きて断念してしまいました。そのため沼の東南側の岸をホコオレといい、今は訛ってホコデというようになったということです。
その頃太宰府から早良糸島(さわらいとしま)方面に往来する人は、太宰府市大佐野(おおざの)から平田、天狗松、イガイ牟田を通り、花無尾(けなしお)の地蔵の茶屋で一服して、畑ケ坂(はたかざか)、大利野添(おおりのぞえ)の丘にそって細い山道が通り、沼の北側を横切って花無尾の丘に上がっておりましたが、沼を横切る所だけはいくら土を盛って道普請(みちぶしん)をしても、すぐ沼の中にめり込んでしまい、村人も旅人も大変難渋(なんじゅう)していました。
今日も村中総出で近くの山の土を運び、道を作っておりますが、すぐまた同じ作業を繰りかえさなければならないと思うと、足どりは重く気力も失せて、ぼんやり沼地を眺めるだけでした。
そこへ一人の巡礼(じゅんれい)の娘が通りかかりました。村人達の難儀(なんぎ)を聞いて、
「私は幼い時に父母に死に別れましたので、諸国を巡礼しながら父母の霊を慰めてきましたが、早く父母のいる浄土(じょうど)とやらへ参りたいと、いつも考えていました。諸国をめぐり歩いている間に、人柱の話もたくさん聞いています。皆さん方や大勢の旅人のお役に立つのであれば、私を人柱にしてください。」
と申し出ました。昔から牛頸村には十六歳の娘を人柱にすれば、どんな難工事も必ず完成するという言い伝えがありましたが、聞けば巡礼娘も十六歳ということです。村人たちはみんなびっくりしてしまいました。そして有難い気持ちには感謝しましたが、見ず知らずの娘さんを人柱にすることはできないと、丁寧にお断りしました。
しかし、娘の決心は堅く、「今日まで諸国を巡礼することができたのは、多くの優しい親切な方々のお陰ですから、今そのご恩返しをして、父母の側に行けることは本望(ほんもう)です。と自ら沼の中にずんずん歩いて行って、とうとう底なし沼の中に沈んでしまいました。すると娘が通って行った跡だけは、みるみる水が乾いて一筋の道になりました。村人達は涙を流して巡礼娘が沈んだあたりに向かって手を合わせ、早速そこに土を盛って突き固め、さらに土を盛って突き固めながら、遂に立派な道ができ上がったということです。
その後村人たちは、この道を西の方に百メートル程行った所の花無尾の丘の道端にある六地蔵(ろくじぞう)の傍らに祠(ほこら)をたて、巡礼娘への感謝の供養(くよう)を怠らなかったということですが、今も六地蔵の左手に一つ離れた祠があるのが、それだと言われています。
六地蔵の様子
イガイ牟田とは?
イガイ牟田とは、い草の繁った湿地の意味があるようです。牟田は湿地または泥沼などの意味です。
イガイ牟田池は花無尾の丘(現在の平野小学校がある丘陵)と、上大利野添の丘(筑紫南ヶ丘病院や陸上自衛隊福岡自動車教習所)との間にはさまれた谷間の溜池となっています。
近年3分の1くらいに埋め立てられて狭くなっていますが、弘化(こうか)年間(1845年ごろ)と明治十年(1889)の2回にわたり牛頸字井手(うしくびあざいで)の北田井堰(きただいぜき)から中通りの山の下にトンネルを掘って猫池(ねこいけ)に水を送り、さらにイガイ牟田池に導き船頭ケ浦(せんとうがうら)、日の浦、三兼(みかね)の池をつないで春日、上大利、白木原の農業用灌漑水路が開かれています。
上大利の発掘調査中に三兼池で牛頸水を引く土管(直径約1メートル)が通っているのを確認しました。
江戸時代や明治時代のトンネル築造については、三兼池のほとりに建てられた白木原村の森山庄太さんの功績をたたえた記念碑に詳しく書かれています。
山田村のお百姓さんの話
山田村に住むお百姓さんの家の井戸から、落としたキセルが見つかったという話は次のような理由からだと考えられます。
昔牛頸に山田村の入会(いりあい:一定の地域の住民が、一定の森林などを共用し収益をあげること)林野があって、たきぎの採取、秣(まぐさ)刈りなどのために、山田村から牛頸まで牛馬を引いていき、この沼の水を飲ませていたからと考えられます。山田村は牛頸小字横峰に対し、代償として湿米(しつまい)を納めており、横峰の人たちはこの湿米を神社のお祭や庚申講のために使ったそうです。
十六歳の少女
十六歳の少女が人柱になったという話ですが、旧筑紫郡には女性が十六歳になると、「十六参り」と言って宝満山(ほうまんざん)の上宮にお参りして、良縁を願う風習がありました。それに宝満山竈門神社(かまどじんじゃ)の祭神(さいじん)玉依姫命(たまよりひめのみとこ)は、水分(みまくり)の神なので水を治めるために、十六歳の少女を捧げるという伝説が考えられたと思われます。
少女が命を捧げて造られた道は、現在県道が造られたために利用する人は少なくなりましたが、幼稚園や小学校の通学路として使われています。
旧道の様子
このページに関する問い合わせ先
地域創造部 心のふるさと館 文化財担当
電話:092-558-2206
ファクス:092-558-2207
場所:大野城心のふるさと館1階
住所:〒816-0934 福岡県大野城市曙町3-8-3