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大野城市

水城をめぐる5〈内濠〉/水城をめぐる6〈外濠〉

更新日:2019年12月5日

水城をめぐる5〈内濠〉

(広報「大野城」 平成25年12月15日号掲載)

水を貯えしむ

『日本書紀』に「大堤を築き水を貯えしむ」と書かれている水城跡ですが、水をどのように貯えていたのでしょうか。
このことについては古くから議論があり、中でも水城跡の中央部を流れる御笠川をせき止めて太宰府市側(土塁の内側)にダム状に水を貯め、博多湾側(土塁の外側)から敵が攻めて来た場合、堤を切って水を流し敵を押し流すという説が有力でした。
ところが、昭和50年から52年にかけて九州歴史資料館が行った発掘調査によって、太宰府市側にあった内濠から水を取り、木樋を通して博多湾側の外濠に貯めるという仕組みが明らかになり、土塁と外濠で敵を防ぐという水城の構造が確認されました。

内濠の調査

これまでの発掘調査では、内濠に当たる部分(太宰府市側)の土塁の端には溝が土塁に平行して伸びている様子が確認されています。溝は蛇行したり形が整わなかったりしていますが、堆積した土の状況から、水が流れていたことは間違いありません。
このようなことから、現在のところ、内濠については自然の水路をそのまま、あるいは部分的に手を加える程度で水を導いていた可能性が高いものと考えられています。しかし、今後発掘調査が進めば新たな発見があるかもしれません。

水城をめぐる(内濠)の地図


水城をめぐる6〈外濠〉

(広報「大野城」 平成26年1月15日号掲載)

外濠の調査

昭和50年、県教育委員会が水城跡東門前面の水田で行った調査で、土塁から60メートルの位置で土手状の高まりがあることが分かりました。ここまでが外濠の範囲であり、深さ約4メートルあったことが確認されました。
また、水城西門周辺の調査では、鴻臚館(こうろかん)へ向かってのびる官道の東側に外濠が確認されています。
近年の調査では、西鉄天神大牟田線沿いの水田で、土塁に平行する数条の溝が確認され、外濠が全て60メートル幅ではなかったことが明らかになっています。

外濠その後

鎌倉時代に書かれた『八幡愚童訓(はちまんぐどうきん)』によると、水城には門はなく礎石のみになり、前面は深田で、道が一つだけのびている状況であったそうです。
この結果を裏付けるように、自然科学分析では、溜池や水田が外濠の周囲にあったと推定されており、湿地的な環境であったことが明らかになっています。
このように、664年に造られた水城は、鎌倉時代には使われなくなり、土塁の周りは水田になっていったようです。
しかし、地元では水城が天智天皇の御世に造られたことが伝えられ、大切に守られてきました。

水城断面図
水城断面図(古都大宰府を守る会編『目で見る大宰府』より)

このページに関する問い合わせ先

教育部 ふるさと文化財課 啓発・整備担当
電話:092-558-2206
ファクス:092-558-2207
場所:大野城心のふるさと館1階
住所:〒816-0934 福岡県大野城市曙町3-8-3

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