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防人たちの息づかいが聞こえる大野城(跡)「日本100名城」

更新日:2016年01月08日

大野城(跡)の歴史

市名の由来ともなった大野城跡、わが国最古の山城である。
現在は大野山から四王寺山と名称は変わったが、水城跡とともに国の特別史跡に指定されている貴重な遺跡であるが、意外と歴史は知られていないようである。
大野城市・太宰府市・糟屋郡宇美町の2市1町にまたがるこの城の歴史を紙面の関係ですべては紹介できないが、概略を説明しよう。
「日本書紀」によると、西暦660年(1,346年前)に朝鮮半島の百済が、唐・新羅から攻め込まれたので、日本に救援軍の派遣を要請してきた。これに応じた大和朝廷の斉明天皇が、皇太子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)に救援軍の指揮を命じた。天智2年(西暦663年)9月、百済のために出兵した救援軍は、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、朝鮮半島から撤退した。そのため連合軍が海を渡って攻め込んでくることを恐れ、博多湾側からの侵攻に備え、その翌年に大宰府(現在の都府楼跡)(歴史上の地名は太→大を使用)防衛のための施設として水城(全長1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土による土塁で、博多湾側に幅60メートルの濠があった。)を築き、西暦665年に百済亡命貴族の指揮下で大野山全体を城とする朝鮮式山城、大野城を築造した。守りやすく攻められにくい山の地形を巧みに利用して、山の尾根に沿って土塁を築き、谷には石垣を築き、総延長は8キロメートルにおよんだ。その内側には7つの礎石群に別れ、全体で70もの建物やいくつかの井戸を設け、水城が突破されたときは、大野城に登って立てこもり長期間戦えるよう食料や、武器を保管していた。
この大野城の築城と併せて、有明海側からの侵攻に備え、基肄城(きいじょう)(佐賀県基山町)が造られた。
実際には唐・新羅軍が攻めてくることはなかった。

大野城跡一帯の四王寺山は、大城山(410メートル)が正式名称であるが、奈良時代(西暦774年)に持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多門天(=毘沙門天びしゃもんてん)をまつる四天王寺が建てられたため、四王寺山と呼ばれるようになった。

この山に分け入ると、防人たちの息づかいが土塁や石垣の陰から聞こえてくるような感じを受け、古人(いにしえびと)の緊張が、今でも伝わってくるようである。
市内のどこからでも見ることができる四王寺山、裾野を左に乙金山、右を太宰府に広げ、福岡平野を見続けてきた山、太古の昔からいつも変わらない姿があった。

  • 白村江の戦いルート図
  • 写真1
    正面の山は四王寺山(大野城跡)斜めの緑は水城跡
    写真2
    市役所の屋上からの展望

同行記 史跡めぐり「大野城をあるく」

集合する参加者たちの写真平成18年5月20日(土曜日)、ふるさと文化財課が毎年春に行っている「大野城(跡)の歴史を学ぼう」の山歩きに、応募してきた市民と一緒に同行取材を試みた。
夜明けまで強い雨が降っていたが、集合の時間になるころには、何とか雨も上がってくれた。31人の参加申し込みがあっていたが、当日の参加者は15人(男性9人・女性6人)と、ボランティアガイド3人、ふるさと文化財課(職員)4人、広報記者1人の総勢23人での山行きとなった。参加者たちは歴史に興味がある人たちで、年齢は50代から60代がほとんどであったが、今日初めて参加したという女性の4人グループもいた。
午前10時、集合場所の四王寺県民の森センター(宇美町)に到着すると真っ赤なシャクナゲが雨に濡れて一段と華麗になった姿で迎えてくれた。
職員が、ボランティアガイドを紹介し、今日の日程と、大野城の歴史の概略を説明した後、午前10時半、山の尾根には雲がまだ張り付いた状態で、足元は大丈夫なのか心配の中、センターを出発した。
センターの裏に向かって進み、アスレチック場の前を右折し、猫坂礎石群に向かう。

真っ赤なシャクナゲの写真午前10時40分、猫坂礎石群(建物の基礎の石)に到着。猫坂礎石群のすぐそばの斜面には、平成15年の水害で土砂崩れが起こり、ブルーシートがかかっていた。もう少し崩れていたら、礎石を飲み込んでいただろう。時代は不明だが、今は斜面になっており、恐らく礎石があったのではないかと思われる崩壊の跡もあった。建物は木造であったため、現在は残っていないが、食料や武器を収めたものと考えられている。
ここでは、ボランティアガイドの竹田さんの説明を聞く。

午前10時50分、坂本口門礎(門柱の基礎の石)に到着。
門の土台石が2基残されている。現在の太宰府市坂本から登ってきて、この門を山側に押し開けて通りぬけ、それぞれの建物(礎石群)に分かれていったのであろう。
これから、土塁上を通って水城口門礎、けいさしの井戸を目指して、なだらかな登りを進む。

午前11時10分、水城口門礎に到着。ここにも門の石が2基残されているが、坂本口門礎と同じ型式の門であることが分かっている。
ここからすぐ上に、けいさしの井戸がある。くぼ地の中に、円形に石組みされた直径50から60センチメートルの井戸がぽつんとあり、今でも水をたたえている。名前の由来は分かっていないが、警備とか偵察の字が頭に浮かんだ。
ここからさらに、土塁を少し外れて、大文字まつりに「大」の字が点灯される尾根へと進む。

  • 説明を聞く参加者たちの写真
  • 説明をするふるさと文化財課職員の写真
  • 礎石の写真

午前11時30分、大文字の点灯場所に到着する。(途中、26番札所でも展望が開けている。)ここでしばらく休憩をとることになった。どんよりとした雲も、大分薄くなり、薄日が差すようになってきた。ここからの展望は、左が水城跡、中央が大野城市から春日市、右側に福岡市が一望できる絶景の見晴らしで、あまりのすばらしさに、汗が一瞬に吹き飛んでしまった。福岡空港へ着陸態勢に入ったジェット旅客機も、眼下に見ることができる。11時40分、毘沙門から屯水(とんすい)へ向けて出発する。

  • 大文字の点灯場所からの展望の写真
  • 石仏の写真

26番札所

四王寺山一帯に、石仏33ヵ所の札所が、今から200年前ほど前に建立され、今でも、八女、久留米地方から団体で詣でる。

広めの道を5分歩くと、毘沙門に到着。(正月3日には、初日の出と初詣の人たちで多いに賑わう。)ここで道中の安全をお願いし、30メートルほど進んだところが、四王寺山の最高峰、大城山(410メートル)。直径2メートルの石組みがあり、あるいは烽火台の跡かも知れない。
今は樹木に覆われて周囲を見渡すことはできないが、当時は360度のパノラマで壱岐島からの烽火もみえたのではないだろか。
ここには、だれが架けたのか温度計があり、現在の温度は15度を指していた。これより屯水へ向かい、野外音楽堂へ出て昼食をとる。
午前12時、屯水に到着。この屯水は山水を排水する水門の施設ではないかと考えられている。今でも大きな石組みから水が流れていた。

  • 毘沙門の写真
  • 石組みの写真
  • 屯水の写真

午前12時10分、野外音楽堂に到着。いつしか雲もすっかり取れ、日差しが強くなってきた。ステージを見下ろすベンチに腰掛け、鳥のさえずりを聞きながら、コンビニで買ってきたおにぎりを4個、瞬く間にたいらげていた。動いた後、自然の中で食べる弁当は格別なものである。
午前12時45分、百間石垣に向かって出発。山道から舗装道路に出て下ること15分で到着。ここは宇美町側からの町道沿いにあり、大野城の石塁の中では最も大きく目立つもので、車で来てもすぐに見ることができる。この石垣は長さが約200メートルで、1間が約1.8メートルとすると100間以上になることから、百間石垣の名が付いたとされる。ここも3年前の水害で損害を受けたが、現在は、修復も終わり、石垣に沿って登山道が整備されている。登ってみると一番高いところで60メートルもあり、下を見ると足がすくむ。
ここでボランティアガイドの吉村さんの説明を聞く。
午後1時、これから主城原礎石群へと進むが、今日の行程で一番難所の急坂を登ることになる。

  • 野外音楽堂で昼食をとる参加者たちの写真
  • 百間石垣への道案内の写真
  • 百間石垣の写真

急斜面を登ること35分、息絶え絶えに主城原礎石群に到着。ここでボランティアガイドの竹原さんの説明を聞く。名前の通り、主(今でいう司令官)がいたと考えられており、杉木立で全景は見えないが、ここも見晴らしが良く博多湾の様子や烽火も見えたのではないだろうか。作戦を練るのにいい場所であり、礎石群の中でも一番広範囲で、19棟の建物が建っていた。
これから先は、馬車でも通るようななだらかな道を下り、センター付近の集落に2時10分に到着する。
ここで、職員が参加者に、集合場所に戻るか、焼米ケ原、太宰府口城門礎を回るか尋ねると、ボランティアガイド1人がセンターに戻り、あとの残りは体力に余力があるのか、みな続けることとなった。
ここから車道沿いに登りながら、ボランティアガイドの竹田さんに、話を伺うと、「歴史に興味があり歴史講座を受講したことがきっかけで、自分の研究も含め、年10回ぐらい登っている」と元気な声が返ってきた。

  • 主城原礎石群の写真
  • 焼米探しに没頭する参加者と炭化した米の写真
  • 太宰府口城門の写真1
    太宰府口城門の写真2
    太宰府口城門の復元図

増長天礎石群の写真午後2時20分に尾花礎石群に到着。ここでは焼米ケ原もあり、今でも焼米(炭化した米)を見ることができる。今朝の雨で地表が洗われて、すぐに見つけることができた。しばらくは焼米探しに没頭する。中には麦と分かるものもあった。この焼米はいつの時代のものか分からないというが、当時の食糧倉庫が火事になったのではないだろうか。一帯の地表が黒くなっていることが分かる。
これから、太宰府口城門へと向かう。道すがら太宰府天満宮や九州国立博物館、太宰府市内、基山などを展望しつつ、午後2時半到着。ここも水害で損壊したが、今は復元されていた。城門の中でも一番大きなもので、いわば正門であったと考えられている。
この門は、3回にわたり造りなおしているそうである。
この門を進むと小さな湿地帯があり、花は終わっていたが、水芭蕉を見ることもできる。あじさいもたくさんあり、これからが見ごろを迎えることとなる。
午後2時50分、これからがいよいよ最終の見学地、増長天礎石群と鏡池である。

鏡池の写真歩くこと10分、増長天礎石群に到着。ここには、奈良時代の四天王の一つである増長天をまつった場所とされていて、その名を取って増長天礎石群と名づけられた。
すぐ横には、鏡池があり、円形のくぼみに水が湧き出し、いくら日照りが続いても枯れることはないと言い伝えられている。昭和53年の福岡大渇水で、当時は水道局に勤務していたが、何度となくこの池に入り、雨乞いをした経験がある。
そんな事を思い出しながら、3時10分、この山歩きに参加した全員が無事にセンターにたどり着いた。今日は何とか天候も回復し、新緑とエゴの花の匂いを嗅ぎ、小鳥のさえずりを聞きながら、1,300年前にタイムスリップすることができ、貴重な体験であった。参加したみなさん、たいへんお疲れさまでした。
今後も、この企画を続けるそうですので、読者のみなさんの中で、歴史に興味のある人、健康のため山登りをしたい人、この同行記を読んで興味を覚えた人などは、参加してみませんか。

大野城(跡)が「日本100名城」に選ばれる

日本100名城の認定書の写真市名の由来となり、また「日本書紀」に登場する大野城(跡)ですが、平成18年の2月に(財団法人)日本城郭協会から「日本100名城」に選ばれたとの連絡があり、4月にその認定書が送られてきました。
その選定基準は

  1. 優れた文化財・史跡、
  2. 著名な歴史の舞台、
  3. 時代・地域の代表

の三要素でかつ、各都道府県から一つ以上五つ以内で選ぶということでした。
このことから、まず近世の城郭67城が選ばれ、その次に日本の城郭発達史から欠かせない名城が選ばれました。大野城(跡)は、この中で朝鮮式山城の代表として選定されました。
市では大変な名誉なことと考え、認定書を市役所1階ロビーのガラスケースに展示しています。
日本城郭協会では平成19年以降、各城の近くに記念スタンプの設置などを企画しています。その際は広報「大野城」などでお知らせします。
今後は、大野城市としても、朝鮮式山城がある市町村と「山城サミット」(仮称)を開くなど、様々な活用を図っていきたいと考えています。

  • 「日本100名城」の一覧については関連リンクよりご覧ください。

このページに関する問い合わせ先

教育部 ふるさと文化財課 啓発・整備担当
電話:092-580-1917
ファクス:092-501-2270
場所:本館5階

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