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伊能忠敬と日本地図(小学6年生)

更新日:2018年10月2日

伊能忠敬(いのうただたか)を知っていますか?

伊能忠敬は小学6年生の社会の教科書で、日本地図を作った人として大きく取り上げられています。日本地図を作るために全国を歩いてまわった忠敬ですが、なんと、大野城市にも忠敬が歩いた道が残っています。今回は伊能忠敬と大野城市の関係についてお話します。

伊能忠敬ってどんな人?

日本で初めて測量(そくりょう)をした人として、大変有名な忠敬は、大変な才能に恵まれた人でした。また、とても好奇心(こうきしん)の強い、凝り性(こりしょう)で根気(こんき)強い性格だったと言われています。

伊能忠敬の肖像

忠敬は14年の歳月をかけて、日本全国を歩いて測量しました。測量にかかった日数は3736日、忠敬の歩いた距離は3.5万キロ、歩数は約5千万歩になります。(忠敬の歩幅は69センチメートルということが分かっています。)

忠敬が測量を始めたきっかけは?

49才で家業(米穀の集荷業、河岸問屋)を長男影敬(かげたか)にゆずった忠敬は、理系に関心が強かったことから暦学(れきがく)・天文学(てんもんがく)を学びました。その頃、暦学者の間では「地球の大きさ」が問題となっていました。忠敬は地球の大きさを測ることを思いつき、早速実行しました。しかし、自宅周辺で行った測量では誤差が大きすぎる事から、もっと長い距離での測定を計画します。
これがきっかけとなり、日本全国を実測することになりました。

忠敬が作った日本地図

忠敬が作った日本地図には大・中・小の3種類があります。

新聞記事写真
伊能忠敬の大図が米国ワシントンの議会
図書館で見つかったことを伝える新聞記事

縮尺は大図では3万6千分の1、中図では21万6千分の1、小図では43万2千分の1となっています。(現在のメートル法とは違い、尺貫法<しゃっかんほう>という長さの単位を用いて実測しています。)

大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚作られました。大図の大きさは畳1枚程度です。

測量の方法

忠敬が測量を始める20年前に作られた地図は、実測に基づくものではない編集図(へんしゅうず)というものでした。この地図は国別(くにべつ)に色分けされ、主要街道(しゅようかいどう)・主要地名・経緯線(けいいせん)が書き込まれていました。当時、生活の中心がカゴや馬を利用した徒歩交通(とほこうつう)たっだことを考えると、町村がすべて描かれた編集図のほうが便利だったようです。

忠敬の地図の特徴

忠敬の測量は海岸線(かいがんせん)と主要街道のみが対象でした。地図をよく見ると、実際の海岸線のほかに赤色で測量線(そくりょうせん)(測線という)が描かれています。断崖絶壁(だんがいぜっぺき)の海岸を測るとき、海岸線よりも内陸で実測を行なえば赤色の測線は海岸線より外側に描かれました。

また、手書きだったことも大きな特徴です。街道の両側には風景を、測量目標とした山や島、岬なども描かれました。そのため、大変美しい仕上がりの地図となっています。

距離をはかる

距離をはかる様子
  • 梵天(ぼんてん)は竹の竿(さお)の先に数枚の紙切れを短冊状につるしたもの。
  • 間棹(けんざお)は間縄(けんなわ)を当てにくい岩場などで役に立った。

りょうていしゃイラスト

  • 間縄(けんなわ)を張って測量ができない場所では、量程車(りょうていしゃ)を使って距離を測りました。量程車を引いて歩くと車輪の回転数により、距離が計算されるようになっています。

梵天(ぼんてん)と測線(そくせん)

梵天(ぼんてん)と測線(そくせん)イラスト

  • 曲線を測るとき、曲線を直線の連続に分けて、曲がり角に梵天(ぼんてん)を立てながら各直線の距離と方角を測りました。

方角をはかる

方角をはかるイラスト

方角の誤差(ごさ)を小さくするために、直線の始点(してん)では北に対する角度を測り、終点(しゅてん)では南に対する角度を測り、その平均を求めました。

つえさきらしんばんイラスト杖先羅針盤(つえさきらしんばん)を使って方角を測りました。杖先羅針はつねに水平が保てるように工夫されていました。また、磁石なので、測定者は大刀(だいとう)をはずし竹光(たけみつ)の小刀(しょうとう)だけをさしていました。

 

緯度をはかる

しょうげんぎイラスト緯度の測定には天文学が役に立ちました。忠敬は象限儀(しょうげんぎ)を使って天体観測(てんたいかんそく)をした場所を地図上に☆印をつけています。天気のいい夜には、一晩で数十個もの星の天文測量(てんもんそくりょう)を夜遅くまで行っていました。

 

忠敬の歩いた道  

測量日記(そくりょうにっき)

忠敬は旅先で測量の現場記録(げんばきろく)を51冊の日記として残しました。のちに、それを28冊の『測量日記』に整理しなおしています。忠敬は大変な記録魔(きろくま)だったようです。しかし、そのお陰で私たちの住む大野城市に忠敬が立ち寄ったことがわかります。

文化九年八月六日「・・・那珂郡板付村・・・井相田村字水落左側は御笠郡仲島村、同山田村字雑餉隈(左御笠郡山田村、右那珂郡井相田村)人家入会、昼休茶屋権吉、追分迄測、御用杭を残置、二里○町一十五間、合二里一十町四十八間・・・」

文化九年九月廿七日「・・・宰府出立・・・粕谷郡炭焼村・・・宇美村・・・八ツ頃筒井村え着、止宿庄屋善六百姓与八」

文化九年九月廿八日「曇天、八ツ後雨、朝六ツ後筒井村出立、左御笠郡山田村、右那珂郡井相田村字雑餉隈、八月六日残御用杭より初、右恵比寿小社あり、左計筒井村、左右同村、右に領主茶屋、字宿前川幅十七間(注:十七尺の誤り)計、瓦田村、白木原村字作出・・・」

忠敬が通った道は、日田街道(ひたかいどう)と呼ばれる博多から日田に通じる道です。大野城市内では、山田・雑餉隈・筒井・瓦田・白木原・東大利・を経由し、その中でも雑餉隈は間の宿(あいのしゅく;中間の宿)としてにぎわっていたようです。この通りは、宰府往還(さいふおうかん)ともよばれ、太宰府天満宮の参詣者(さんけいしゃ)や商売関係の人々などの行き来も多かったようです。

郡境界標(ぐんきょうかいひょう)

県道112号線の錦町1丁目と雑餉隈3丁目が境を接する地点に立っていた石柱のことです。郡境界標は伊能忠敬が実測のためにここを通ってから5年後の文化丁丑歳(ぶんかひのとうしのとし)(文化14年、西1817年)に建てられました。平成12年に歴史資料展示室に移される前までの約186年もの間、旧街道沿いにたたずみ時代の変化を見守ってきました。郡境界標をよく観察すると、角がとれてかなり痛んでいます。これは、自動車が普及してきたために交通量が増え、交差点の角に立っていた郡境界標にぶつかった跡なのです。郡境界標もまさか車にぶつかられるなんて、建てられた当初は思ってもみなかったことでしょう。

群境界標写真
群境界標は大野城心のふるさと館に展示してあります。
現在の群境界標写真
現在の群境界標の様子

江戸時代の時制(じせい)

江戸時代の時制(じせい)は不定時法(ふていじほう)で、夜明けを「明け六つ(あけむつ)」、日暮れを「暮れ六つ(くれむつ)」とし、その間を六等分して時刻を表しました。夜明けの時間は季節によって変わるので、夏と冬では同じ明け六つでも時刻が違いました。また、場所が変わって緯度が変われば、夜明けの時間も違ってくるので、時刻は一定にはなりません。『測量日記』のなかに書かれている文化九年(1812年)九月廿八日に伊能忠敬一行が筒井を出発したのは、明け六つですからおおよそ午前6時10分ごろと思われます。

日田街道の文化財

見てみよう!

文化財が残っている場所と村があった場所を比べてみましょう。昔は現在のようにどこでも家が建っていたわけではなく、村と村の間には田や畑が広がっていました。この村の中に神社や猿田彦(さるたひこ)などが建てられ、村内での生活の安全や豊作を祈願しました。明治期の人口は3855人でした。現在では92000人を超えています。

日田街道と文化財

 

大野城市の昔話

『測量日記』に出てくる筒井村の庄屋善六についての昔話が残っています。「おおのじょうしの民話」の中の「百本の傘」と「庄屋に化けた古狸」を参考にしてください。

このページに関する問い合わせ先

教育部 ふるさと文化財課 啓発・整備担当
電話:092-558-2206
ファクス:092-558-2207
場所:大野城心のふるさと館1階
住所:〒816-0934 福岡県大野城市曙町3-8-3

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