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大野城跡

更新日:2017年08月31日

大野城跡(おおのじょうあと)

日本書紀に「天智(てんち)四年(665) 達率(だっそつ:百済(くだら)の貴族の官位のひとつ)答本春初(とうほんしゅんそ)を遣(つか)はして、城(き)を長門国(ながとのくに)に築かしむ。達率憶礼福留(おくらいふくる)、達率四比福夫(しひふくふ)を筑紫国に遣はして、大野(おおの)及び椽(きい)の二城(ふたつのき)を築かしむ。』とあります。その意味は達率答本春初を派遣して、城を長門の国(現在の山口県西部)に築かせた。達率憶礼福留と達率四比福夫を筑紫の国に派遣して、大野と椽の二つの城を築かせた。となります。

大野城跡は四王寺山(しおうじやま)とも呼ばれます。大城山(おおきやま)が正式名称ですが、奈良時代(774年)に持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(=毘沙門天:びしゃもんてん)の四天王を祀った四王寺(四天王寺:してんのうじ)が建てられたため、四王寺山と呼ばれるようになりました。

大野城跡(おおのじょうあと)

白村江の戦い

大野城市の指定文化財「水城跡」で白村江(はくすきのえ)の戦いについて少し触れましたが、今回は百済救援までについて紹介します。

660年に滅んだ百済の遺臣は倭(わ)に滅亡を伝えるとともに、救援軍の派遣を要請してきました。これに応じたのが斉明(さいめい)天皇でした。斉明天皇は皇太子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)らを率いて飛鳥(あすか)を立ち、翌年の661年3月に娜大津(なのおおつ:那津〈なのつ:現在の博多港〉)に着きました。途中、兵士・武器・食糧を調達しています。

『日本書紀』岩波書店より斉明天皇の足跡をたどってみました。
(『日本書紀』岩波書店より斉明天皇の足跡をたどってみました。)

天皇は宮(難波宮:なにわのみや)を出発し、磐瀬行宮(いわせのかりみや)を経て朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなひろにわのみや:現在の朝倉郡朝倉町内)に遷り、指揮をとりました。朝倉の地を選んだ理由としては、豊後国へ抜ける道に面しており、水路により有明海に通じる筑後川が流れ、最悪の事態には速やかに畿内に撤退が可能なことがあげられます。筑後平野東端部の地に大本営としての宮を築いたのでしょう。しかし、その年の7月に斉明天皇は亡くなり、中大兄皇子が後を継ぎました。

その後663年には白村江の戦いで大敗し、大和朝廷が築いた防衛施設の一つが大野城となります。

鴻臚館、那津宮家、水城、大野城、大宰府政庁、基津城、朝倉橘広庭宮の位置図

大野城跡

大野城は水城が築かれた翌年に造られました。また、その2年後の667年には倭国(やまとのくに:現在の奈良県)に高安城(たかやすのき)、讃吉国(さぬきのくに:現在の香川県)山田郡に屋嶋城(やしまのき)、対馬国(つしまのくに)に金田城(かねだのき)を築きました。

これらの山城は朝鮮半島に面した玄海灘(げんかいなだ)沿岸地域、有明海から上陸した敵に備えた地域、また、大和朝廷の中心地である畿内(きない)への海上ルートである瀬戸内海に面した場所に築かれています。

大野城跡

大野城と大宰府・水城

大野城を説明するときに関係してくるのが大宰府と水城です。水城については既に説明しているので、ここでは省略します。

那津宮家や大宰府政庁の位置図

大和朝廷は6世紀から、九州の政治的、軍事的支配の拠点として、また外交の窓口として「那津宮家(なのつのみやけ)」という出先機関を北九州に置いていたことが日本書紀に書かれています。現在の福岡市博多区の比恵(ひえ)遺跡から建物跡が見つかっていることから、ここが那津宮家と考えられています。

那津宮家の後には、九州を治める役人の職として「筑紫大宰(つくしだざい)」の名が記録に現れます。筑紫大宰が管理していた組織が、後の大宰府政庁に続くものと考えられています。このような朝廷の出先機関を海に近い場所に置いておくことは危険なことでした。

白村江の敗戦後の緊張関係の中、現在都府楼(とふろう)跡として知られる内陸の地に大宰府政庁の原形が移されたのは、663年以降のことと考えられます。日本書紀に記録はありませんが、大宰府政庁の発掘調査ではこれを裏付けるように、最古期の建物(政庁は少なくとも2回建て替えられています。)の時期は7世紀半ばから後半であることが知られています。

水城と大野城の役割については、次のように考えられています。唐・新羅軍をまず水城の濠と土塁で食い止めます。水城の内側に移されてきた大宰府を守る防衛線です。敵がこの防衛線を突破してきた場合は、大野城に上がって立てこもり、時機をみて撃って出ようという戦略です。

敵が攻め入ってくる可能性が一番高いのは地理的に玄海灘、博多湾側からでしょうが、有明海側からの侵入も考えられます。水城と大野城が大宰府の北の守りとすれば、基肄(椽)城とその周辺の小水城、上津土塁は南の守りといえるでしょう。実際には海を渡って唐・新羅が攻めてくることはなく、水城や大野城が戦場となることはありませんでした。

大野城の構造と規模

大野城は古代の朝鮮式山城(ちょうせんしきさんじょう)と呼びます。これは、百済人の技術により築かれた守りやすく攻められにくい山の地形を利用して造られた「城(き)」だからです。大野城には普通の城で見られる天守閣(てんしゅかく)や櫓(やぐら)、本丸や二の丸・三の丸、濠などはつくられていません。後の時代の用語である城主(じょうしゅ)の住む所でもありませんでした。

(1)土塁(どるい)・石塁(せきるい)

簡単に説明すると、土塁は土手のこと、石塁は土を使わず石を組んだ石の土手、石垣のことです。山の尾根線(おねせん)上は土塁を、谷間には石塁をつくり、総延長は8キロメートル余りになります。

土塁(どるい)・石塁(せきるい)

上の図を見ると、土塁・石塁がちょうど鉢巻を巻いたように見えます。北側と南側の土塁・石塁は二重になっています。この土塁・石塁の内側を城内、外側を城外と区別しています。しかし、山全体が大野城なので、城外と言っても実際は大野城の範囲です。土塁の上に立って城外を見下ろすと、急斜面になっていて敵は容易に近づくことができません。

土塁は歩きながらよく観察できます。現在でもこれだけよく残っているのは、何種類かの異なる土を層状に積み上げた「版築」に似た技法が取られているからと考えられます。

土塁

百間石垣(ひゃっけんいしがき)

大野城の石塁の中では最も大きく目立つものです。長さ約200メートル、高いところは約60メートルもあります。水害により現地に存在はしていませんが礎石(そせき)が3つ発見されました。現在は宇美八幡宮と県民の森センターに置かれています。

百間石垣

大石垣(おおいしがき)

大石垣については、関連リンク「特別史跡大野城跡」大野城をあるく“その2”を見てください。

(2)建物

大野城の建物は現在70棟余りが確認されています。すべて城内(土塁・石塁の内側)に建てられ、これらが数棟から十数棟のグループを構成しています。それぞれの地名をとり、主城原(しゅじょうばる)地区建物群・八ツ波(やつなみ)地区建物群・村上地区建物群・猫坂(ねこざか)地区建物群・尾花地区建物群・増長天(ぞうちょうてん)地区建物群と呼ばれています。

礎石建物

建物には礎石(そせき)建物と掘立柱(ほったてばしら)建物の2種類があり、掘立柱建物のほうが古いことが分かっています。上のイラストは礎石という基礎となる石の上に柱を建てた礎石建物です。

建物の大きさを表す場合、「間(けん)」という言葉を使います。「間」は柱と柱の間のことを指します。上のイラストでは柱が4本あり柱と柱の間が3つあるので「3間」といいます。そして、他の辺に柱が3本あった場合、間が2つで2間となるので3間×2間の建物という表現をします。

大野城跡のシンボルマークです。
大野城跡のシンボルマークです。礎石建物と山をイメージしています。

注:各建物群については関連リンク「特別史跡大野城跡」大野城をあるく“その1・2・3”を見てください。

(3)門

大野城には土塁・石塁の内側と外側との連絡口に当たる門がありました。宇美口城門・太宰府口城門・坂本口城門・水城口城門の4ヶ所がありましたが、今は門柱(もんちゅう)の礎石などを残すだけです。

宇美口城門

百間石垣と四王寺川が交わる谷間に造られた城門です。(1)土塁・石塁の百間石垣で説明しています。

門礎
県民の森センターの庭に置かれている宇美口城門の門礎(もんそ)です。

太宰府口城門

太宰府天満宮方面から四王寺山へ通じる車道を登りながら、尾花地区建物群や増長天地区建物群の少し手前の大きな谷を右に見下ろした所にあります。門の西側の谷間は石塁で塞いでいます。発掘調査の結果、現在見えている石敷(いしじき)に加えてもう一列の石敷が見つかりました。また、現在見えている門の跡は礎石の上に門柱をたてる型式ですが、最初に造られた門は掘立柱の門であったことがわかっています。少なくとも、2回建て替えがあったということです。

太宰府口城門

太宰府口城門の門が立っていた様子の復元イラスト
太宰府口城門の門が立っていた様子を復元しました。

水城口城門

水城から国分寺を抜け城内に通じる山道に、2個1対の礎石が見られます。この門は掘立式の門礎を持ち、礎石の端にある丸い切り込みを通るようにして、直接地面に柱を埋め込む型式です。

水城口城門

水城口城門の門が立っていた様子の復元イラスト
水城口城門の門が立っていた様子を復元しました。

坂本口城門

大宰府政庁(都府楼跡)の裏道を通り、大野城に登っていく山道沿いにあります。水城口城門と同じ型式の門です。現在は1つの門礎しか残っていませんが、かつては2つありました。

(4)水門

大きな谷には石塁が築かれていますが、ふだんは水の流れていない谷間でも、大雨が降るとたくさんの水が集まってきます。そのため排水施設が必要となります。基肄城(きいのき:佐賀県基山町にある古代朝鮮式山城)には排水施設として水門がありますが、大野城では屯水(とんすい)がそれにあたるのではないかと考えられています。

注:屯水については関連リンク「特別史跡大野城跡」大野城をあるく“その4”を見てください。

(5)井戸

大野城は敵が水城を越えて来たときに兵士や役人が篭城(ろうじょう)するための施設だったと考えられています。食糧は建物(倉庫)に貯えておき、水は井戸や水ためから調達していたと考えられます。城内には井戸や水ためと思われる場所があります。

鏡池(かがみいけ)

増長天地区建物群のすぐそばにある池で、円形の大きなくぼ地の底に水が湧き出しています。鏡池には雨乞い(あまごい)にまつわる伝説があります。日照りが続く時には、この池に沈んでいる鏡を取り出して祈ったとか、池の中に鏡を投げ入れて雨降りを祈ったといわれています。今でも池の底には鏡が沈んでいるといわれています。

鏡池(かがみいけ)

けいさしの井戸

水城口城門の近くに円形の大きなくぼ地があり、この中に石を円形に組んだ井戸があります。調査されていないため時代や規模はわかりません。

けいさしの井戸

大野城跡について

大野城跡は平成15年7月19日の大雨によって大変なダメージを受けました。市役所から四王寺山を見ると、地面が覗いている個所がたくさんあります。これらは木々が土砂によってなぎ倒された大雨の傷跡なのです。もっともひどい個所では土石流がおきています。

現在、車道が一部通行止めになっているところもあり、復旧までにはかなりの時間がかかると考えられます。毎年5月に行なっていた「大野城をあるく」という企画も見送ることになりました。

このような大災害を受けたのは大野城跡が築造されて以来初めてと考えられます。長い年月をかけて土塁の一部が崩れてしまったり、過去に百間石垣が壊れたため補修したことがあったとしても、水城を含めてこれほどの被害はなかったと思われます。しかし、新たな発見もありました。大部分の石が流されてしまった大石垣では、これまで考えられていたよりも規模が大きかったことがわかりました。今後、復旧整備は福岡県によって単に元の形に戻すのではなく、調査をしながら行われることになるでしょう。

その後、道路は復旧され、通行止めも解除されたので、車で来てもらうことができるようになりました。

大野城跡について

「大野城をあるく」で大野城に登ったときに撮った写真です。いい天気だったので、とても素晴らしい眺めでした。
注:大野城跡について詳しく知りたい人には、歴史資料展示室で資料を無料配布しています。

  • 解説シート 考古No.17 内容:大野城跡
  • 大野城市の文化財 第28集 内容:特別史跡 大野城跡

このページに関する問い合わせ先

教育部 ふるさと文化財課 啓発・整備担当
電話:092-558-2206
ファクス:092-558-2207
場所:大野城心のふるさと館1階
住所:〒816-0934 福岡県大野城市曙町3-8-3

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