移動式竈
大野城市北部の仲島遺跡から見つかりました。古墳時代後期の大きな溝から出土したもので、高さは約25センチ、裾幅は約50センチです。内側には黒い煤が付着していますが、下のほうにはついていないことから、その部分を土中に埋めて固定していたのではないかと考えられています。竈上部には甕などをかけるための穴があいており、火を焚く口が大きく開いており、炎をロスしないように庇(ひさし)がついています。竈本体と甕の大きさを調節するドーナツ状の土器(ハカケ)、甑(こしき)などがセットとなっています。移動式竈の断片的なものはしばしば出土しますが、このように完全な形がわかるものは福岡周辺では極めて珍しいです。
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甑を乗せたところ
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移動式竈と甑
甑の使い方
甑は竈にかけた甕の上に乗せて使います。甑の底には穴が開いていて、ここから甕の中にある水が沸騰して蒸気が昇って来て、米を蒸すという仕組みになっています。弥生時代には丸い一つ穴が多かったのですが、古墳時代になると2孔式の甑が増えてきます。
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甑の底部
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食卓事情
弥生時代の食卓には、おかゆのようなご飯が並んでいました。これを姫飯(いいめし)と呼びます。一方古墳時代に入ると強飯(こわめし)と呼ばれる、蒸した米を食するようになります。これは、調理方の発達に伴う変化です。それまでの、甕で煮るという作業から、甑を使って蒸すという調理方法に変化したため、食卓に並ぶご飯の姿が変わりました。また、弥生時代にも甑が見つかっていることから、ケの日ハレの日という特別な日(お祭りなど)に強飯を炊いたとも言われています。
生活の変化
弥生時代の生活は家の中央に合った炉を中心に生活が行われていました。炉を囲んで暖を取ったり、調理しながらの一家団欒などがあったと思われます。しかし、古墳時代後半に家の壁に造りつけの竈ができてからは、台所的な一画が竈を中心として設けられ、竈の周囲には貯蔵庫が造られ、須恵器でできた水をためる甕なども置かれました。
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弥生時代の家の中の様子
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古墳時代の家の中の様子
| 最近まで残っていた竈との比較 |
下の写真は市内南部の月の浦と中央部の上大利に最近まで残っていた竈の写真です。月の浦は壁から離れた場所に独立した形で据えつけられていました。一方、上大利の竈は壁に密着した形で、古墳時代の竈を彷彿とさせます。昭和30年頃まではどこの家でも見られた竈ですが、最近ではめったに見ることができなくなりました。
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月の浦の竈
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上大利の竈
問い合わせ先
ふるさと文化財課文化財担当
電話 092-580-1916、092-580-1917
ファクス 092-501-2270
メールアドレス furusato@city.onojo.fukuoka.jp
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