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郡境界標

 

郡境界標(ぐんきょうかいひょう)

県道112号線の雑餉隈町と錦町の境に建っていた高さ117センチの角柱の石柱です。

 この道標は、旧街道であった日田街道の名残で、当時の御笠郡と那珂郡との境界を明示するものでした。江戸時代には大野城市の大部分は御笠郡に含まれていました。春日市や那珂川町、福岡市の中央区、南区などは那珂郡となっていました。東側面には「従是(これより)東御笠郡、西那珂郡」、西側面に「文化丁丑歳(ひのとうしのとし)四月」、南側面に「筒井村抱(かかえ)」、北側面に「井相田村抱」と刻まれています。

郡境界標が立っていた様子

郡境界標が立っていた様子

歴史資料展示室に展示された郡境界標の表面
歴史資料展示室に展示されている郡境界標(表)

歴史資料展示室に展示された郡境界標の裏面

歴史資料展示室に展示されている郡境界標(裏)

 井相田村とは現雑餉隈町のことです。昔は那珂郡井相田村字雑餉隈と呼んでいましたが、明治22年(1885年)の町村制施行により大野村に編入され大字井相田分となり、大正7年(1918年)3月1日大字名変更により大野村大字雑餉隈と改称し、昭和57年(1982年)11月15日の住居表示施行により雑餉隈町となりました。

 文化丁丑歳は、文化14年(1817年)にあたります。

 

伊能忠敬と日本地図

 初めて日本の測量地図を作った伊能忠敬がちょうどこの辺りを測量しています。伊能忠敬は大変な記録魔だったようで、測量日記を毎日つけていました。その測量日記には、

 「文化九年(1812年)八月六日 晴天 博多呉服町逗留、市中測る・・・・藤井相田村字水落 左側は御笠郡仲島村 右那珂郡井相田村 人家入会 昼休茶屋権吉 追分まで測り御用杭を残置・・・・

 文化九年九月二十七日 ・・・・宰府出立・・・・宇美村・・・・八ツ頃筒井村へ着 止宿庄屋善六、百姓与八

 文化九年九月二十八日 ・・・・朝六ツ後筒井村出立 左御笠郡山田村 右那珂郡井相田村字雑しょうの隈 八月六日残置御用杭より初め、右恵比須小社あり、左ばかり筒井村 左右同村、右に領主茶屋 字宿 前川幅十七間(尺の誤りか)ばかり、瓦田村白木原村・・・・・下大利村・・・・」

とあります。また、当時この測量に付き添った畑詰村『庄屋夘助連年日記』には、

「文化九年申年 同年測量方参付添庄屋被仰付、七月西堅粕村松原新茶屋より、博多辻より雑賞迄見習として那珂郡内付添」

と記録されています。

 測量を開始した文化九年の5年後である文化14年(1817年)に郡境界標は建てられました。

 

現存する郡境界標

 このような郡境界標の現存するものは少ない。同じ旧御笠郡の郡境界標としては同じ日田街道の長崎街道分岐点である、筑紫野市天山と朝倉郡夜須町二の堺に同じ大きさの標石があり、「従是(これより)東夜須郡、西御笠郡」と刻まれています。建立年代は不明です。

 現在は、貴重な文化財である郡境界標の破損がひどくなり、平成12年に歴史資料展示室に移設されました。跡地には場所を明示するための石柱と説明版が埋められています。

現在の郡境界標

日田街道

 日田街道とは、江戸時代に博多・久留米・中津・熊本・別府の各地から日田に通じる街道の総称ですが、筑前を通る街道の中で日田街道は、長崎街道や薩摩街道と共に九州では目立って往来が多い街道でした。

 江戸幕府は、天領(幕府直接の支配地)であった日田を支配するために西国郡代を支配していました。当時は郡代をはじめ、長崎奉行など地方に派遣されていた幕府の役人は一年で交替することになっていました。また、各地の領主である大名は、一年おきに在府・在国する参勤交替の制度が設けられ、それに相まって全国の街道や宿場が整備されてきました。

 筑前の日田街道は、博多から宰府・二日市・甘木などの宿を経て日田へ至る街道で、別名代官道とも称されていました。現在の大野城市内の経由地は、山田・雑餉隈・筒井・瓦田・白木原・東大利で、中でも雑餉隈は間の宿(あいのしゅく)(博多~二日市間の中間の宿。通常宿は4里おきに設けられていました。)としてにぎわっていたようです。この通りを、古い記録には宰府往還ともしるされ、大宰府天満宮参詣客や物流関係者などの行き交いも多かったそうです。

昔の日田街道の様子
   

昭和40年(1965年)の日田街道(瓦田)

現在の日田街道

平成7年(1995年)の日田街道(瓦田)

 歴史ある日田街道も、昭和7年の国道3号線(現在の県道112号線)の開通によって、その役割に終止符が打たれました。

大野城市内を走る日田街道の様子

 上の地図は、国土地理院発行大正15年測量図(25,000/1)の一部です。赤が日田街道、青が御笠川・牛頸川、茶色が九州鉄道(現西鉄天神大牟田線)、紫が国鉄(現JR九州)をそれぞれ示しています。

 

間の宿(あいのしゅく)

 近世における日田街道(通称太宰府往還ともいう)の交通路の要衝として、博多宿と二日市宿の丁度中間に位置し、博多へ二里、二日市へ二里といわれて間の宿として栄えていました。

 間の宿とは正規の宿場である博多宿と二日市宿の間は四里(16キロメートル)もあって、老人や子どもが休みなく歩き通すのは無理であるため、その中間地点の休憩地として設けられた宿場です。

 雑餉隈と山田と下筒井の街道沿いに軒を並べて旅籠屋(旅館)が7軒あり、茶店、酒、味噌、醤油屋や食料品店、雑貨店などがあって、近郊近在の農家(現大野城市、春日市、太宰府市、福岡市博多区、粕屋郡宇美町など)からも買物に来て大変賑わっていました。

日田街道の旅籠マップ

間の宿の旅籠の様子
(赤司岩雄著『大野城市巡杖記』、岩瀬はつえさんからの聞き取りを参考にしました。)

 

現在の雑餉隈町

現在の雑餉隈(間の宿:上段の写真)の様子

 ところが、明治22年(1889)にここに駅舎が出来るはずであった九州鉄道(現JR鹿児島本線)の建設に反対したため、旅人は汽車に乗って通過してしまうようになり、大正12年(1923)の九州鉄道(現西鉄天神大牟田線)は雑餉隈の裏山の雑木林の中を通り、春日原駅前には野球場、大運動場が出来て駅前だけは賑やかになり、さらに昭和7年(1932)には日田街道の拡幅直線工事によって、一級国道3号線(現県道112号線)になり自動車の交通量が増えて人や物資の通過地点になってしまい、宿場町としての往時の繁栄は影をひそめてしまいました。

 ふるさと文化財課文化財担当
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