平成19年12月28日(水)の午前10時から唐山遺跡の現地説明会が開かれました。当日は悪天候だったにもかかわらず80人の考古学ファンが訪れました。


朝鮮半島との交流・東アジア情勢を示す資料

▲大溝出土の「新羅土器」壺
遺跡の位置
遺跡は大野城市乙金東三丁目1263-1外にあります。県道飯塚大野城線建設予定地内文化財発掘調査事業として調査を実施しました。月隈丘陵に連なる井野山から延びる丘陵の南側斜面に遺跡は立地します。周辺の乙金山・大城山・月隈丘陵では、6世紀から7世紀にかけて大規模な古墳群が多数営まれていました。また、王城山古墳群C支群からは新羅土器が出土しており、朝鮮半島との交流が想定される場所です。

唐山遺跡第2次調査の概要
調査は平成19年5月から平成20年1月まで行いました。遺跡は北から南に延びる丘陵部にあたります。6世紀後半から7世紀後半の時期の群集墳で、現在まで5基の古墳が見つかっています。すべて破壊を受けており、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)の天井石は抜かれて残っていませんでした。このうち1・ 2・3号墳は、直径10~13mの円墳で南に開口する横穴式石室です。1・3号墳は単室、2号墳は複室構造の横穴式石室です。5号墳は破壊が著しく墳丘は残っていませんでしたが、1~3号墳と同様に南に開口する横穴式石室と考えられます。4号墳も破壊が著しく石室の一部しか残っていませんでしたが、小石室と考えられます。

▲唐山遺跡第2次調査全景(東から)

▲唐山遺跡第2次調査地形測量図
1号墳・2号墳と新羅土器
〔1号墳〕
1 号墳は直径約11mの円墳です。埋葬施設は単室の横穴式石室で、玄室(げんしつ)は3.2×2.5mのやや縦に長い長方形です。羨道(せんどう)部は幅 1.4×長さ4mです。副葬品は玄室で鉄釘(てつくぎ)と須恵器(すえき)が、羨道部で須恵器が出土しました。また墳丘盛土の中から須恵器壺・甕が、古墳正面の墳丘裾から壺とその蓋のセットが3組出土しました。7世紀後半には、最後の追葬と墓前祭祀をしているようです。古墳は6世紀後半に築造され、7世紀後半まで使用されていたことがわかりました。

▲1号墳全景(東から)

▲1号墳墳裾墓前祭祀遺構遺物出土状況(南から)
〔2号墳〕
2 号墳は直径約13mの円墳です。埋葬施設は複室構造の横穴式石室です。石室は玄室が幅2.6×長さ3.3m、前室は幅1.6×長さ2m、羨道部の幅0.9 ×1.6mです。玄室~羨道の床面には排水用の暗渠(あんきょ)を設けています。暗渠の中には人頭台~拳大の角礫が入れられていました。玄室の床面はかく乱を受けていましたが、耳環(イヤリング)4点、水晶製切子玉(きりこだま)1点、馬具(飾金具〈かざりかなぐ〉)1点が出土しました。前室では馬具(飾金具、鞍金具、鐙〈あぶみ〉金具、轡〈くつわ〉など)と須恵器が、暗渠内で鉄鏃(てつぞく)がまとまって出土しました。羨道部では須恵器・土師器(はじき)が出土しました。古墳は6世紀後半に築造され、7世紀後半まで使用されていたことがわかりました。
〔大溝と新羅土器出土状況〕
大溝は2号墳の周囲に巡らされた溝で、古墳の周溝埋没後に掘削されており、平面形が方形に近い形で溝の両端は谷に向って落ちていきます。この溝の規模は幅3~4m、深さ2mで断面V字となります。
新羅土器はこの溝がやや埋まった段階の層から出土しました。完形品が打ち割られて廃棄された状態で出土し、周辺には須恵器がまとまって出土しました。何らかの祭祀行為に伴うものと考えられます。須恵器の型式から溝の掘削年代は7世紀後半と考えられ、新羅土器の年代とも一致します。
また1号墳墳裾出土の壺のうち1点は、この新羅土器に形が非常に似ています。この壺の一部は、大溝の新羅土器の近くから出土しました。

▲2号墳と新羅土器出土大溝(北から)

▲新羅土器出土状況(1)(北から)

▲新羅土器出土状況(2)(北から)
〔新羅土器の特徴と年代〕
今回の調査で大溝と呼んでいる遺構から、他の土器とは特徴の異なる土器が出土しました。器種は壺で、受け口状の口縁部と上から押し潰されたような扁平な胴部となっています。肩部には1条の断面三角形の粘土紐を横に貼り付けたもの(突帯)が一周します。この壺には頸から胴部上半にかけて文様が付けられています。文様は同心円状文様のスタンプを押したもの(円弧文)と櫛状の工具を縦に押したもの(縦長列点文)とからなり、ちょうどスダレをたらしたような感じに見えます。
壺の形状や作り方、文様の種類・施文の仕方は、7世紀に朝鮮半島にあった三国の内の新羅で作られた土器と特徴が一致しています。これらを日本では新羅土器と呼んでいます。そして今回見つかった新羅土器は7世紀後半のものと考えられます。

▲円弧文

▲縦長列点文
3号墳~5号墳
〔3号墳〕
3 号墳は直径約10mの円墳です。埋葬施設は単室構造の横穴式石室で、玄室は幅2.3×長さ2.4mのほぼ方形、羨道部が幅1.2×長さ3.6mです。副葬品は須恵器が出土しました。墳丘の築造方法で、3号墳にのみ外護列石・内護列石が使用されています。古墳前面のみに見られ、墳丘を盛る時に土が流れないように置いた土留めの役割があると推定されます。
〔4号墳〕
4 号墳は破壊が激しく墳形は不明です。埋葬施設としては、石室の石1つと石を据えた掘り方の痕跡が残っています。幅は推定で2mで、小石室と考えられます。副葬品としては須恵器、勾玉(まがたま)・ガラス玉などでできたネックレス、耳環(イヤリング)、馬具などが出土しています。
〔5号墳〕
5号墳は3号墳の東に隣接して築かれています。破壊が激しく墳丘は全く残っておらず、墳形・規模は不明です。石室は横穴式石室と考えられ、両側壁の一部と墓坑が残ります。幅は2.1mです。
考察
今回の調査について、調査成果は以下のとおりです。
新羅土器が7世紀後半の大溝から出土したこと。
新羅土器は古墳群での7世紀後半の祭祀に使用され、大溝に投棄されたものと考えられます。さらにこの新羅土器は製作から時間を経ることなく日本に持ち込まれて祭祀に使われたことがわかり、新羅土器を使用した祭祀を行った集団は、朝鮮半島と日本との交流に関わりが深い集団であると考えられます。また7世紀後半の祭祀は1・2号墳を古墳と認識し利用していることから、この追葬行為を行った集団は、これらの古墳築造の被葬者集団と強いつながりがあることがわかります。
唐山遺跡と低地を挟んだ南側の乙金山には、7世紀前半の新羅土器が出土した王城山古墳群C支群があることから、これらの古墳群の広がる現在の大野城市中・乙金地区周辺は7世紀代を通じて、朝鮮半島との交流と関連が深い場所であったと思われます。本調査出土の新羅土器は、7世紀後半の東アジア情勢やその最前線である当時の博多湾沿岸の様子を示す資料として重要なものといえるでしょう。
今後も新たな資料の出土によって、今回の解釈をさらに確実にする新たな発見が重ねられるようになるでしょう。
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