平成21年1月24日(土)10時から薬師の森遺跡(やくしのもりいせき)第5次調査現地説明会がありました。古墳時代の集落や中世の水田が見つかり、新聞報道を見た考古学ファンが雪の中60人以上訪れ、熱心に説明に聞き入っていました。
1.遺跡の位置
薬師の森遺跡は乙金山(おとがなやま)・大城山(おおぎやま)から西側にのびる丘陵上に位置し、大野城市乙金3丁目一帯に広がっています。今回の5次調査は大野城市乙金3丁目414-2ほかにあります。これまでにも区画整理事業や開発に伴い4回発掘調査が実施され、旧石器(きゅうせっき)・縄文(じょうもん)時代~鎌倉(かまくら)時代にかけての遺構・遺物が見つかっています。
▲薬師の森遺跡全景

▲薬師の森遺跡第5次調査地点位置図と周辺の遺跡分布図
2.調査の概要
調査地は丘陵北側の緩やかな斜面と丘陵北側にある谷部にあり、最近まで丘陵部は畑、谷部は水田として利用されていました。丘陵部をA区、谷部をB区として、平成20年8月から約7,000平方メートルの面積を対象に発掘調査を実施しました。調査の結果、A区では縄文時代~鎌倉・室町(むろまち)時代にかけての遺構(いこう)・遺物(いぶつ)が出土しました。B区では鎌倉・室町時代の水田跡が発見されました。遺物はパンケース(65×45×15cmの箱)で約100箱分出土しました。
| 確認された遺構と遺物 | |||||||
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年代 |
時代 |
A区 |
B区 |
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遺構 |
遺物 |
遺構の性格 |
遺構 |
遺物 |
遺構の性格 |
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約4000~ |
縄文時代 |
- |
土器・石鏃・石匙 |
不明 |
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約2400年前 |
弥生時代 |
土坑 |
土器・石鏃・ |
集落 |
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6世紀中頃~ |
古墳時代 |
竪穴住居 |
須恵器・土師器・ |
集落 |
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8世紀 |
奈良時代 |
溝・土坑 |
須恵器・土師器 |
集落 |
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8世紀末~ |
平安時代 |
― |
越州窯系青磁他 |
不明 |
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12世紀末~ |
鎌倉・ |
溝・土坑・ |
青磁・白磁・ |
集落 |
水田跡 |
青磁・白磁・ |
水田 |
〔縄文時代〕 人類活動の痕跡を確認
縄文時代の遺構はありませんでしたが、縄文時代晩期(約4000~3000年前)の土器や石鏃(せきぞく:矢の先端)などが出土しました。
〔弥生時代〕 集落の一部を確認
弥生時代の遺構としては土坑(どこう:様々な目的で営まれた穴の跡)が少数あり、前期の土器(約2400年前)や石庖丁(いしぼうちょう:稲穂を摘み取るための農具)が出土しました。集落の一部であったと考えられます。
〔古墳時代〕 集落の発見
今回の調査で確認した遺構はほとんどが古墳時代後期(約1500年前)のもので、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)を中心に溝や土坑などがあり、集落があったことが明らかになりました。住居はそれぞれが重なり合いながらつくられていることから、数世代にわたって集落が営まれていたことがわかります。住居からは須恵器(すえき)・土師器(はじき)のほか、ミニチュア土器・土製模造鏡(どせいもぞうかがみ)・滑石製有孔円盤(かっせきせいゆうこうえんばん)といったお祭りの道具や、管玉(くだたま)・小玉(こだま)・耳環(じかん)などの装身具、鉄器などのほか、朝鮮半島系遺物や須恵器づくり・鉄づくりに関連する遺物が出土しました。古墳時代の集落については後で詳しく述べます。

▲調査区全景(古墳時代の遺構面)(四角の穴が住居跡)
〔奈良時代~平安時代〕 集落の一部と遺物を確認
奈良時代の遺構は掘立柱建物や溝・土坑(どこう)が少数あり、集落の一部と考えられます。次の平安時代の遺構は確認されませんが、特徴的な遺物として越州窯系青磁(えっしゅうようけいせいじ:中国から輸入された陶磁器)が出土しています。乙金地区では奈良時代~平安時代にかけての様子はこれまでよくわかっていません。今回の調査では、断片的ですがこの時代の資料が発見され、今後周辺の調査に大いに期待が持てます。

▲調査区全景(中世の遺構面)
〔鎌倉~室町時代〕 市内初となる水田跡と集落の一部を発見

▲水田に残された足跡
谷部(B区)で大野城市初となる水田の跡を確認しました。B区は調査前まで現代の水田として利用されていましたが、現水田面下約1mから鎌倉時代~室町時代の水田跡が発見されました。水田跡は洪水により流されてきた砂の層により覆われていたため、当時の状況がよくわかる状態で残っています。洪水の被害によって耕作できなくなったのでしょう。水田は畦によって約20の区画に分けられていますが、現代の水田のように直線的に整備された区画ではなく、微妙な地形に沿って曲線的につくられています。用水路から直接1枚の水田に水を供給するのではなく、棚田(たなだ)のように上の田から下の田へ水を送っていた状況が明らかになりました。また水田には当時の人々の足跡も複数残されています。丘陵部(A区)では居住域の一部と考えられる遺構が確認されており、丘陵部(A区)に居住し、谷部(B区)で水田耕を行っていたと想定できます。
水田発見の意義としては、次の2点が挙げられます。
(1) 査地周辺では、青磁や白磁(はくじ)が副葬された富裕層の墓も調査されており、こうした人々の生活基盤や地域開発の様子、集落の景観などをうかがえる。
(2) 水田が洪水砂で覆われていた点や良好に残る足跡から、当時の人々の姿や、自然災害とのかかわりを身近に感じることができる。
3.古墳時代集落の様相
今回の調査で確認した古墳時代集落の様相について、以下で詳しく説明します。
(1) 集落の時期 今回発見した集落は、出土した須恵器・土師器の特徴から、6世紀中ごろから形成が始まり、7世紀初頭までの約半世紀間存続することがわかりました。
(2) 竪穴住居 当時の人たちはどのような家に住んでいたのでしょうか?以下で詳しく見ていきたいと思います。

▲竪穴住居とカマド
今回発見した住居は全て「竪穴住居」とよばれるものです。竪穴住居とは地面に穴を掘り、そこに柱を立て屋根を葺(ふ)いた住居のことです。

今回見つかった住居は、主に一辺4~6mほどの正方形のもので、住居の中にはカマドが設置されています。カマドは今でいう台所にあたるもので、日本でも戦後ころまではみられたようですが、そのカマドの原型となるものが検出されています。粘土で構築しており、周囲から土師器甑(こしき:食物を蒸すための土器)や甕(かめ:鍋のようなもの)が出土することがあります。カマドの中には焼土(しょうど)や灰の層が確認されることから実際に使用していたことがわかります。

住居は30軒ほど確認しましたが、その大半が重なり合った状態で見つかりました。それは、多くの人々が長期間にわたって家の建て替えを繰り返しながらこの土地で生活を営んでいたことを裏付けています。今は住居の基礎の部分しか見ることはできませんが、実際には柱が立てられ屋根が葺かれて、食事の時間には家々の屋根からカマドの煙が立ち上っていたことでしょう。
(3)特徴的な出土遺物
A)朝鮮半島系遺物(ちょうせんはんとうけいいぶつ)
算盤玉形陶製紡錘車(そろばんたまがたとうせいぼうすいしゃ)
非常にユニークな形をした紡錘車(ぼうすいしゃ)が見つかりました。それは算盤玉形陶製紡錘車といわれるもので、文字通り、算盤玉のような形をした陶製(須恵質)の紡錘車のことで、直径3.5cm、厚さは2.0cmほどです。

▲紡錘車とは糸を紡ぐ時に、回転によって糸によりをかけるため、糸巻棒(いとまきぼう)にさして回転を良くするための道具です。円盤形・截頭円盤形・算盤玉形で、土製・石製・鉄製・骨製などがあり、直径3~5cmで中心に貫通孔(かんつうこう)がある。
有溝把手付甑(ゆうこうとってつきこしき)
古墳時代の集落から甑が出土することは珍しくないのですが、今回の調査では一風変わった甑が出土しました。これは有溝把手付甑といわれるもので、甑把手の上面に溝(筋)を施しており、朝鮮半島の土器の影響が認められます。


▲甑とは底部に孔を有する深鉢形の土器で、食物を蒸すための道具です。
B)須恵器製作関連遺物
須恵器(窯で焼かれた器で、硬く灰色をしている)をつくる際に生じたと考えられる陶片(とうへん:切削物〈せっさくぶつ〉)が出土している他、焼いた時に歪んだと考えられるものや生焼けのものが出土しています。集落の中に須恵器を作る工房が存在した可能性があり、周辺の調査に期待が高まります。
※調査地から700m北に乙金窯跡・500m南に雉子ケ尾窯跡・1km南に裏ノ田窯跡があり、いずれも6世紀後半~7世紀初頭にかけての須恵器窯跡があります。
C)製鉄関連遺物
鉄滓(てっさい:製鉄や鉄器製作の際に生じる鉄カス)や炉壁(ろへき:製鉄炉や鍛冶炉の上部構造)と考えられる遺物が出土しており、鉄づくりを行っていた可能性を示しています。
D)祭祀具(さいしぐ:おまつりの道具)
ミニチュア土器・土製模造鏡(どせいもぞうきょう:鏡を模した土製品)・滑石製有孔円盤など、おまつりに使ったと考えられる遺物が出土しました。住居の床面やカマド内から出土した例があり、家族・集落単位でのまつりやカマドに対する祭祀があったことがうかがえる資料といえます。
(4)集落と古墳
本調査の東側にある乙金山山麓(おとがなやまさんろく)には喜一田(きいちだ)・王城山(おうぎやま)・古野・原口古墳群といった多くの古墳がつくられています。これらの古墳は本調査地から半径500m圏内に分布しており、6世紀中ころ~7世紀にかけてつくられていたことがわかっています。今回確認した集落は、時代的・地理的にみて、乙金山山麓に分布する古墳に葬られた人々の集落であったと考えられます。最後に、これまで検討してきたことを総合して、古墳時代集落についてまとめてみたいと思います。
(5)古墳集落発見の意義
これまで乙金山山麓に分布する古墳をつくった人たちの集落は未発見でしたが、今回の調査の結果、古墳群と集落の対応関係の一部が確認でき、大きな発見となりました。またこれらの古墳のうち、王城山古墳群や唐山遺跡では6世紀末~7世紀後半にかけての新羅土器が出土しており、今回発見された算盤形陶製紡錘車や朝鮮半島系土器は、古墳群で確認されていた朝鮮半島との交流が集落でも確認できた点は大きな成果といえます。
また、集落内で須恵器づくりや鉄づくりの痕跡が確認されたことも、注目できます。須恵器生産・鉄生産に渡来人(とらいじん)が深く関与していたことは、古墳時代の日本列島各地で認められており、この点からも半島文化との密接なつながりを垣間見ることができます。
薬師の森遺跡に朝鮮半島系遺物を携えた人々は、この地で倭人(わじん:日本)社会に溶け込みながらも、朝鮮半島とのパイプを保持し、ときには半島の技術を伝え、ときには半島との交流の担い手として、古墳文化の中で大きな役割を果たしていたことでしょう。算盤玉形陶製紡錘車や朝鮮半島系土器は、こうした朝鮮半島との関係を如実に物語る資料といえます。古墳時代集落の発見によって、歴史の中のほんの一部分が明らかになりました。今回出土した算盤玉形紡錘車は、まさしく歴史を紡ぎだす際に大きなヒントを与えてくれます。
4.まとめ
今回の調査の結果、縄文時代~室町時代にかけての遺構・遺物を確認し、人々の暮らしが連綿と続いていたことが明らかになりました。縄文時代や平安時代では、断片的な資料を得ることができ、弥生時代・奈良時代では集落の一部を確認しました。今後の調査に期待が持てる成果といえます。鎌倉・室町時代では水田跡および同時期の集落の一部と考えられる遺構を確認しました。水田跡は市域初の発見であるのみならず、保存状態が良好で広い面積を調査できたことは、当時の景観や水田の構造を明らかにする上で、重要な資料となります。また、当地の土地利用のあり方が中世期までさかのぼることが明らかになった点も大きな成果といえるでしょう。古墳時代集落の発見は、乙金地区や大野城市のみならず、北部九州や日本列島の古代史、日韓交渉史を考える上で非常に重要です。
問い合わせ先
ふるさと文化財課文化財担当
電話 092-580-1916、092-580-1917
ファクス 092-501-2270
メールアドレス furusato@city.onojo.fukuoka.jp
場所 市役所 本館5階〔〒816-8510 大野城市曙町二丁目2-1〕











