中世(平安時代の終わり~安土桃山時代)の大野城市は、どのような姿であったでしょうか。
文献史料では、観応3年(1352年)に、大利村が安楽寺(現在の太宰府天満宮)領に含まれていたことが記されています。大利村は後の上大利村・下大利村にあたり、2つの村はもともと一村であったことが分かります。また、瓦田村も安楽寺領に含まれていました。このほか、白木原村が光明蔵禅寺(現在の光明寺)、山田村は博多崇福寺の寺領となっていました。一方、乙金村には石見国(現在の島根県)の国人、周布興兼(すふ おきかね)の所領がありました。周布興兼は現在の山口県を根拠とする戦国大名大内氏の家臣で、大内氏が筑前(現在の福岡地方)にまで勢力をのばしていたことが分かります。そのほかに、平野庄と呼ばれる地名が見えます。牛頸平野神社に関係するものと思われ、最終的に観世音寺領となっています。
一方、発掘調査では上大利・白木原・瓦田・山田・乙金・畑詰で中世の集落跡が見つかっています。文献に見える村と重なるものもあり、村の一部であったと考えられます。なかでも、最も発掘調査が進んでいる御笠の森遺跡〔山田二・三丁目〕は、11世紀ごろに御笠の森周辺に集落が出現します。以後、12~15世紀にかけて継続的に集落が続き、16世紀になると集落の周りに溝を巡らせるようになります。この時期はちょうど戦国時代に当たり、大野城市周辺では大友・島津・竜造寺氏を始めとする戦国武将たちが覇を競い合っていました。御笠の森遺跡の集落に溝が巡らされたのは、こうした戦乱から村を守るためと考えられます。大久庵村(那珂川町)や山門村(福岡市)では、村の周りに幅2~3メートルの堀を巡らせ、中に逆茂木を立て並べ、押し寄せる軍勢から村を守った様子が文献から知られています。御笠の森遺跡は、17世紀(江戸時代)になると溝も埋まり、村は現在の県道112号線沿いに移転して、江戸時代の山田村へと発展します。
このように、中世の大野城市は天満宮や太宰府・博多の寺、戦国大名の所領となっており、大半が農村であったと考えられます。戦乱の激化とともに村の周りに溝を巡らせ、自力で村を守っており、たくましく生きた村人の姿を垣間見せてくれます。
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観覧料 |
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